ゆらりゆらりと体が揺れている感覚がある。
まぶたを開ければ、キャスティはヒールリークスの薬師の家でベッドの上に寝転んでいた。
「……マレーヤ?」
おまけに懐かしい人物がベッドの横にいて、無表情でこちらを覗き込んでいる。
(いいえ……これは夢ね)
キャスティはすぐに思い当たる。先日行われたティンバーレインの戴冠式の後、彼女は己の意識に住んでいた薬師団の仲間たちを自ら眠らせた。だからもう会うことはないだろうと思っていたが、それでも夢に出てきてくれたのだ。
起き上がってマレーヤと視線を合わせる。
「どうして何も喋ってくれないの?」
相手はただこちらを見つめるだけだ。記憶を失ってから遭遇したマレーヤはキャスティの頭が作り出した存在であり、今は眠りについたので話すことなどない、ということか。自分は都合の良い夢すら見られないのか、と苦笑する。
キャスティはベッドに腰掛け、幻影のマレーヤに語りかけた。
「私、やったのよ。ヴィーデっていう邪神が大陸を全部夜にしてしまって、大変だったんだけど……なんとか朝を取り戻したの。もちろん、今の仲間がいたからできたことよ」
そこで彼女は口を閉ざし、うつむく。邪神は消えて、それぞれの旅の目的はなくなった。仲間との別れはもう目前に迫っている。
キャスティは一瞬の迷いを振り切って顔を上げた。
「大丈夫。これからも私は、一人でも多くの人を救ってみせるわ」
きっぱり宣言すると、初めてマレーヤが眉をひそめた。何か言いたそうだ。彼女のこの顔は何度か見た覚えがある。果たしてどういう時に浮かべる表情だっただろう。
おもむろにマレーヤが片手を出し、キャスティの足元を指差した。そっと唇が動く。
「え、何? 聞こえないわ、マレーヤ」
よく耳を澄まそうとした時、体が大きく揺さぶられた。
「キャスティ、キャスティ起きて! 港についたぞー」
――これはマレーヤではなくオーシュットの声だ。はっとして目を開ける。
途端にまぶしい光が網膜を焼き、キャスティは思わず手で目元を覆った。
「もうカナルブラインについたけど……だ、大丈夫?」
すぐそばでアグネアが不安そうな声を出す。ようやっと目が慣れてきて、キャスティは手を下ろした。
そこはパルテティオの船の一室だった。閉ざされたカーテンの隙間から陽光が差し込んでいる。ほんの少し前まで夜が続いていたせいか、ささやかな光でもずいぶん明るく感じた。
夢の中でマレーヤに報告した通り、一行は無事に邪神を倒した。その後、海路でカナルブラインを目指していたことまでは覚えている。キャスティが寝ている間に到着したのだろう。ちなみにヴィーダニア島に向けて出発したのも同じ町の港からだった。地形的に最も行き来しやすかったためである。
船室には八人で囲める大きなテーブルがあり、キャスティはそこで地図を眺めるうちに机に突っ伏して居眠りしていたところを、仲間たちに起こされたらしい。
そして、周囲にいたのは狩人と踊子だけでなかった。
「疲れているのではないか。少し休んでから船を降りるか?」
ヒカリが眉をひそめる。キャスティはかぶりを振って立ち上がった。
「いえ……平気よ」
なおも心配そうにする仲間たちの間を抜け、船室から甲板に出る。外にはびっくりするほど鮮やかな色と光が満ちていた。反射的に目を細める。
「おはようさん、キャスティ!」甲板にいたパルテティオが黄色いコートを翻して片手を挙げ、
「気持ちのいい朝だよ。いや、もう昼かな」
ソローネが短い髪を潮風になびかせて笑う。同じく外に出ていたオズバルド、テメノスも気づいてこちらに寄ってきた。
船はすでにカナルブラインの港に入っていた。明るい日差しの下、港では船乗りたちが荷物を運び、商人が仕入れの交渉をしている。
キャスティは甲板からそれを見下ろしながら、以前この港を訪れた時のことを思い出した。記憶を失ったばかりの頃だ。小舟で漂流していたキャスティは定期船に拾われて、この町にやってきた。今見た限りでは、あの時とほとんど変わらぬにぎわいだ。太陽の恵みを全身で享受する人々の姿に、彼女はほっとする。
「これからどうする、キャスティ」
後ろからやってきたヒカリに問われ、彼女はうなずいた。
「とりあえず船を降りましょうか」
号令をかけ、全員で荷物を下ろした。といってもさしあたり陸地で行動するのに必要な分だけ持って、残りはいつもどおり船に置いていく。
無事に港に降り立ったキャスティは仲間を集め、今後の予定を話した。
「今から宿に荷物を置いて……今日と明日はお休みにしましょう。ただし、今晩はみんなで酒場で打ち上げね」
「賛成!」
この提案に、あちこちから明るい声が上がる。八人と一匹は充実した気分を抱えて宿に向かった。
カナルブラインの港を出ると、しばらく露店街が広がっている。宿はさらに奥、町の入口付近だ。キャスティは隊列の真ん中を歩きつつ、ちらちらと露店を眺めた。今朝とれたばかりの新鮮な魚が、濡れたウロコを輝かせている。
そばにいたテメノスがつぶやいた。
「カナルブラインはいつもどおりのようですね」
「案外、みんな久々の朝ってことに気づいてなかったりして」
その横でソローネが小刻みに肩を揺らす。無意識だろうか、彼女は風通しの良くなった首元に触れていた。
キャスティはまっすぐ前を見て答える。
「気づかなくていいのよ。だって、朝は誰にとっても当たり前に来るものだから」
あのヴィーダニア城で「明日が望むべきものか」と問われたキャスティは、一点の曇りもなく当然だと答えた。今でもあの台詞は決して間違っていないと断言できる。その「普通」を誰もが受け取れる世を取り戻すため、彼女は戦ったのだ。
「でもさ、俺たちの活躍が知られてねーのはちょっと寂しいよな」
大股になってキャスティの隣に出たパルテティオが、不満げな顔で腰に手をあてる。ソローネがにやりとした。
「なら、大々的に声明でも発表したらいいんじゃないの、社長さん?」
「そこは教会の公式発表が先じゃねーか?」
商人はさらりとかわし、神官に水を向ける。
「そうですねえ。面倒ですが、報告しないわけにはいかないでしょう。三つの聖火の場所も含めて……」
テメノスは大きくため息をついた。大聖堂に帰った後、彼には大変な仕事が待っているだろう。
実はキャスティもそれが気になって、カナルブラインを目指す船旅の中でテメノスにあることを申し出ていた。「こんな説明をあなたに丸投げにするわけにはいかない、大聖堂に呼んでくれたら証言でも何でもする」と。だが、返事は「そのくらいは自分でやりますよ。仕事なもんで」だった。皆の前では面倒だなんて言い張っているが、彼は自らが解き明かした真実に責任を持って対応しようとしていた。
「じゃあ、テメノスは荷物を置いたらここの教会に行くの?」とソローネが尋ねる。
「はい。大聖堂へ宛てた手紙をしたためて、教会経由で託そうかと思います。ある程度草案はできていますから」
「へえ……でもあんた、教会を信用できるの? 確かに怪しいやつは全員いなくなったかもしれないけど……」
目をすがめたソローネが鋭く指摘した。テメノスは眉根を寄せる。
「腐っていたのはあくまで聖堂機関の上層部です。大聖堂の神官長と、それに聖堂騎士にも一人は頼れそうな人物がいます」
「あのオルトってやつだな」
パルテティオが納得したように手を打った。オルトというのはクリックの同僚だった聖堂騎士だ。生真面目な印象が強く、ナ・ナシの里の奥にあった裂け岩の中で元機関長カルディナに異議を唱えて返り討ちにあったが、居合わせたキャスティの応急手当が間に合ったこともあり、今は職場に復帰している。
ソローネはテメノスの脇腹を肘でつつく。
「ま、教会に怪しいやつがいたら私が闇討ちしてやるよ」
「その前に真実を暴いてから、ですよ」
テメノスはふっと笑った。真実を解き明かす旅の過程で多くのものを失った彼が、少し気の抜けたような表情を浮かべるのを見て、キャスティはこっそり安堵した。
「まあ、大急ぎで手紙を書く必要はありませんし、今日は休もうかと思います。キャスティはどうするのですか」
不意に話題を振られた。キャスティは薬鞄の上に手を置く。
「私は……夜が続いて体調が崩している人がいるかもしれないから、町の見回りをするわ」
途端に紫の影が目の前に立ちふさがった。目で追えない速度で動いたのはソローネだった。キャスティは慌てて足を止める。疑問を込めて見つめれば、ソローネは顔の前で人差し指を立てた。
「あのさ、今日と明日は休みって言ったよね? キャスティも休まなきゃだめだよ」
強い口調だった。絶句したキャスティに対し、やれやれと言いたげにテメノスが肩をすくめる。
「無理をしてもいいのは昨日だけ、なのでしょう?」
彼は、キャスティがヴィーデと戦う直前に「今日は無茶をしていい」と仲間に告げたことを引用しているのだろう。
「確かにそう言ったけれど、別に無理をしているわけじゃ……あら?」
形勢が悪くなったキャスティが目を泳がせた時、視界の隅に気になるものが映った。
このあたりに立ち並ぶ露店のうちのひとつだ。書物の専門店だろうか、むしろの上に台が置かれ、大判の本がいくつも平積みになっている。
「あの本……」
キャスティはふらふらと露店に引き寄せられる。突然の進路変更に、盗賊、神官、商人らが不思議そうについてきた。そういえば、先を歩いていたヒカリたちがいつの間にかいなくなっている。四人を置いて宿に向かったようだ。
「いきなりどうしたんだよ?」
パルテティオの疑問には答えず、キャスティは店先にしゃがみこんだ。後ろから本の山を覗き込んだテメノスが問いかける。
「もしかして……キャスティ、あなたが薬師を目指すきっかけになったという絵本ですか」
さすがは名探偵と呼ばれる彼だ、察しがいい。キャスティは本から目を離さずにうなずいた。
「ええ、それに似ている気がしたの。……すみません、見本はありますか?」
奥にいた店主に話しかければ、「これだよ」と言って一冊の絵本を渡される。キャスティは逸る気持ちを抑えきれず、ろくに表紙も見ずにページをめくった。
「どう?」
ソローネに尋ねられ、キャスティは首を振った。
「違うわ。これじゃないわね」
手にとったのは聖火神エルフリックが出てくる本だった。きっと神話をもとにしているのだろう、テメノスの紙芝居と同じ題材――邪神封印のくだりが描かれていた。薬師とは関係なさそうだし、記憶の琴線に触れることもなかった。
キャスティは店主に絵本を返し、「寄り道してごめんなさいね」と仲間たちに一言告げてから、店の前から去ろうとする。
が、今度はパルテティオが立ちはだかった。彼は少し眉を下げて、
「キャスティはああいう絵本を探してたのか? 言ってくれたら俺が探しといたんだが……」
「ううん、いいの。たまたま似た絵本があって、気になっただけだから」
「その絵本ってさ……もしかしてキャスティが親に買ってもらった、とか?」
ソローネのぎこちない質問に対し、キャスティはうつむいた。
「……覚えてないの」
「え?」
きれいに三人分の疑問が重なる。キャスティは風の吹いてくる方向、露店街を抜けた先にある港を振り返り、波の彼方を見つめてなんとか記憶を手繰り寄せようとする。
「その本を読んで薬師を目指したことはよく覚えているわ。でも本の内容も、どうやって絵本を手に入れたのかも……あまり思い出せないのよ」
仲間たちは黙りこくってしまった。どうしたのだろうと視線を戻せば、全員がもの言いたげな顔をしていた。
「それは……私の聞いていない話ですね」
テメノスの目が光る。その様子に「まずいことを言ったかもしれない」と悟ったキャスティは、話を変えるべく自分の荷物を持ち上げた。
「あの、ヒカリ君たちとはぐれちゃったし、早く宿に行かないと」
「もしかしてさ、キャスティって昔のことはまだ思い出せてないの?」
ずばりソローネに切り込まれる。誤魔化しても仕方ないので正直に話した。
「薬師団の頃のことはちゃんと思い出したわよ。でも、それより前は……」
「そっか、ティンバーレインの戴冠式が終わって割とすぐ『夜』になったもんなあ……。記憶探してる暇なんてなかったよな。俺もうっかりしてたぜ」
帽子を脱いだパルテティオが黒髪をかき乱した。その横で、テメノスが一歩前に出る。
「キャスティ。あなたはそのままでいいのですか」
彼のまなざしは真剣そのものだった。気圧されないよう、キャスティは腹に力を込めて答える。
「記憶を取り戻さなくてもいいのか、ってこと? もちろんいつかは思い出したいけど……今はもっと他にやるべきことがあるもの」
「自分の記憶より大事なことなんて……あー、誰かを救うことか」
パルテティオが苦い顔をした。彼の言う通りだ。手がかりもないのにふらふらと記憶を探し回るよりは、使命を果たす旅の途中でふと思い出すことに賭ける方がいいだろう。おそらく、トルーソーの件のように緊急に思い出すべき記憶はもうないのだから。
ソローネがまぶたを半ばまで伏せる。ちらりと見える暗色の瞳には、深い憂慮がにじんでいた。
「でもさ、私ですら昔の記憶はあるんだよ。いくらろくでもない思い出でも、忘れたままでいいとは思えない。小さい頃の記憶って今の自分の基礎になるわけだし、何がなんでも手に入れたいような大事なもんじゃないの?」
彼女の発言は重かった。ソローネは己の過去をきちんと受け止めて、これからやるべきことを探そうとしている最中だ。今後の指針だけ決まっているキャスティとは正反対の立場からの意見だった。
「そうだぜ。キャスティはさ、もし他の仲間が同じような状況だったら『自分が手伝う』って言うよな?」
パルテティオの言葉に反論できなかった。徐々に心の天秤が傾いてくるのが分かる。
「この絵本……」
不意にテメノスがつぶやいた。彼の手には、先ほどキャスティが見ていた絵本がある。どうやら話の途中でさり気なくこの場を離れ、露店から再び見本を借りてきたらしい。
「シリーズになっているようですよ。八神に対応して八冊あると奥付に書いてあります。キャスティが昔読んだのはこれと表紙が似ている絵本ですよね。つまり同じシリーズのうち霊薬公を扱った本が『当たり』なのでは?」
流れるような推測を聞いて、水色の表紙がちらりと頭をよぎる。そこにはキャスティが何度も力を借りた神の名が刻まれていた――気がする。
「さすが名探偵。いい推理じゃないの」「その本がキャスティの記憶のヒントかもしれないってことか!」
ソローネが不敵にほほえみ、パルテティオがぱちりと指を鳴らす。キャスティはもごもごと反論した。
「そう……かもしれないわね。でも、とにかく今は荷物を――」
「それは俺たちが運んでおこう」
急に背後から声がかかり、飛び上がりそうになる。涼やかな声の正体はヒカリだった。振り向けば、他の仲間も勢揃いしていた。
「急にいなくなるからびっくりしたよー。アカラに言われて気づいたんだ」
オーシュットが唇を尖らせる。その足元には賢い獣が座ってしっぽを振っていた。
仲間の出現に驚いている間に、ヒカリがさっとキャスティの荷物を持ち上げた。オズバルド、オーシュットも進み出て、それぞれパルテティオとテメノスの鞄を持つ。
「あ、ありがとうヒカリ君……」
「構わぬ。何か用事があるのだろう?」というヒカリの質問に、
「そういうことです。私たちはしばらくキャスティと行動しますので」
テメノスがしれっとうなずく。アグネアは自分とソローネの分の荷物を両手で元気よく振り上げた。
「キャスティさんのことだから、きっと町に具合が悪い人がいないか気にしてるんでしょ? もし見つけたらあたしたちで診ておくよ。オズバルドさんも薬師のライセンス持ってるし!」
「助かるぜ旦那。よろしくな」
「この程度、造作もない」
パルテティオに軽く背中を叩かれ、オズバルドはふっと息を吐く。荷物を持った四人は談笑しながら再び宿に向かっていった。
その背中を見送ったキャスティは、軽くなった手をぎゅっと握る。
「せっかくのお休みなのに、みんなを付き合わせちゃったわね……」
ソローネが肩をすくめた。
「好きでやってるからいいんだよ。で、どうするのパルテティオ。品物を探すならあんたの出番だよね」
話を振られたパルテティオはじっと考え込む。
「つってもなあ……ここらの店を片っ端から探してみるしかねーだろ」
「そう都合よくお目当ての本があるかしら」
つい水を差してしまったキャスティに対し、テメノスが冷静に答えた。
「ここの露店の仕入れ先は基本的に船でしょう。先ほどの店と同じ船から商品を仕入れている店があれば、シリーズの本が置いてある可能性は高いですよ」
「名探偵の言う通りだよ。ほら、いつまで渋ってるのキャスティ」
ソローネの言葉を受けたキャスティは、どきりとしてケープの合わせ目を握った。
「……そうね。私が当事者なのに、ずっとこんな調子じゃだめよね。みんな、良ければ協力してもらえるかしら?」
三人の顔を見回せば、「もちろん」と口々に同意が返ってくる。キャスティはほおを緩めた。まったく、船を降りた時点では予想もしなかった展開だ。
絵本が見つかるかどうかは正直分からない。だが、たとえ発見できなくても「探した」という事実がない限り、お人好しの仲間たちは決して諦めないだろう。そういう予想ができるからこそ、キャスティは仲間の負担にならないために引き際を見極めつつ、誰よりも真剣に探さなくてはならなかった。
露店に本を返してきたテメノスが、腕組みをする。
「さてキャスティ、絵本について他に思い出せることはありませんか」
「水色っぽい表紙だったわ。絵柄は多分、さっきの聖火神の本と同じね」
「よっしゃ、探すぞ!」
パルテティオの号令により、四人で手分けして露店街を回ることにした。商品として本を扱う店は意外にも多かった。最初に見たような専門店だけでなく、雑多な品の中に本が混ざっている場合もあるので、なかなか気が抜けない作業だった。
仲間たちは次々とそれらしき絵本を見つけては、キャスティを呼びに来た。
「これはどう?」「違う……と思うわ」「惜しい、同じシリーズの紳商伯の話だなこれ。でもちょっと中身が気になるな……」「パルテティオ、買い取るのはいいですが本命も探してくださいね」
四人は露店街の端から端まで絵本を探した。が、成果は上がらなかった。縦横に広がる通りを全部確認した結果、気づけば中天高く昇っていた太陽もだいぶ傾いてきた。
一旦露店街を出て、広場で休憩することにした。ソローネは少し疲労の見える顔で言う。
「このへんの本屋は全部見たかな。パルテティオ、次はどうしたらいいの」
彼が答える前に、キャスティが割り込む。
「みんな、もういいわ。……探してくれてありがとう」
皆の自由時間はすでに取り返しようがないほど削れてしまった。潮時だろう。しかしパルテティオは強硬に首を振った。
「いーや、俺の商人としての勘が言ってる。今日ここで探しとくべきだってな! シリーズのうち二冊もあったんだから、残りも絶対あるはずだぜ」
彼の勘や嗅覚が恐ろしく冴えていることは身に染みて知っているので、キャスティはそれ以上口出しできなかった。一方で、テメノスが気遣わしげに口を開く。
「キャスティ、大丈夫ですか。あなたこそ疲れたのでは?」
「船で居眠りしてたしね」
とソローネが息を吐く。キャスティは軽く肩を回し、うなずいた。
「私は平気よ。ねえパルテティオ、何か宛てがあるの?」
「ああ。こうなったら直接聞きに行くしかねーよな」
にっと口の端を持ち上げた彼は、露店街の先を指で示した。その方向にはカナルブラインの港に停泊する定期船があった。なるほど、とテメノスがあごをなでる。
「仕入先を確認するわけですか」
「そうさ。本当なら露店商たちに筋を通しておくべきだが……」
「本一冊の買い取りくらいなら構わないでしょう。行きますか」
男性陣はテンポよく会話し、すぐに港へ足を向けた。
キャスティは遅れてそのやりとりを理解する。パルテティオは、例の本が定期船の積み荷にあると考えたようだ。あの船は人だけでなく荷物も多く運んでおり、その中に絵本が含まれている可能性は高い。彼はよそからやってきた商人が既存の露店商を無視して定期船と直接交渉するのはまずいことを承知の上で、港に直行したのだ。
「ちょっと、パルテティオ!」
聞こえていないのか、男性たちの背中はどんどん離れていく。置いてけぼりになった女性二人は、小走りで追いかけた。
「二人で勝手に盛り上がっちゃったみたいだね」
「テメノスまでああなるのは珍しいわね……」
ソローネがひそやかに笑い、キャスティは嘆息する。あの神官はこういうお節介はしないだろう、と勝手に思い込んでいたのだが。
「でも気持ちは分かるな。もうすぐ仲間が解散しちゃうでしょ。みんな、これから一人になるキャスティのことが心配なんだよ」
びくりと肩が跳ねた。キャスティは声を飲み込み、一拍おいてから指摘する。
「……それなら、ソローネだって同じでしょう」
「私が黒蛇を抜けて一人になったのは、自分で選んだ結果だよ。でもキャスティは違う。本当だったら記憶を持ったまま薬師団を続けていられたのにさ……」
ソローネは眉を曇らせ、唇を閉ざした。取り戻した記憶に加えて、複数の人物の証言や手記から明らかになった事実を総合すると、彼女とキャスティの過去にはある人物が大きく関わっていた。おそらくソローネはそれについても遠回しに言及しているのだろう。
「キャスティの記憶が戻る可能性がちょっとでもあるなら、そのきっかけをつくりたい。気休めでもいいからこの先のキャスティの助けになりたいって、みんな思ってるんじゃないかな……」
それはソローネ自身の思いでもあるのだろう。キャスティはそこまで心配をかけていたのかという驚きを隠し、無言のまま今の言葉を噛み締めて、再び黄色と深緑の背を目で追った。
港に着くと、波の音と潮の香りがいっそう身近に押し寄せてきた。全身に海の気配を浴びたキャスティは、定期船のそばに佇む目立つ色のコートに近づく。パルテティオは足音に気づいたのか、何故か困ったような顔で振り返った。
「なあ、この人がキャスティに会いたいって言ってるんだけど……」
商人と神官の間に、赤い帽子をかぶった男性がいた。キャスティは大きく息を吸う。思わぬ人物との再会だった。
「船長さん……?」
「キャスティさん。久しぶりだな」
その船乗りは穏やかに笑う。つられてキャスティもほおをほころばせた。やはりそうだ、この顔を忘れるはずがない。
「本当ね。最近は定期船にも乗らなくなったから……」
ふと視線を外すと、仲間たちが不思議そうに船長を見ていた。キャスティは急いで説明する。
「ええとね、こちらは定期船の船長さん。記憶喪失で海を漂っていた私を拾って、カナルブラインに送り届けてくれたの」
「ああ、なるほど」
ソローネは合点のいったように手を叩いた。船長は物珍しそうに旅人たちを眺める。
「定期船の船長は俺以外に何人もいるし、会えないのは仕方ないな。しかしキャスティさん、こんなに大勢と旅してたのか」
「そう。あと四人もいるのよ」
キャスティは誇らしい気分で語った。以前別れた時、船長は彼女の今後を気にしていた様子だった。今こうして無事を報告することで、少しでも懸念を払拭できただろうか。
船長はとんとんとキャスティの肩を叩く。
「そうだ、新聞で読んだぜ。あんたがティンバーレインを救ったんだってな。エイル薬師団、やるじゃないか」
「え、ええ……!」
あたたかい言葉を受けて、ぽっと胸に火が灯る。だがその直後、デルスタタイムスに記事を書いた人物を思い出し、思わずパルテティオの様子を確認した。彼は表情を隠すためか、帽子のつばを下げていた。
とはいえ、船長にとっては新聞のおかげで「エイル薬師団は殺人集団であり、キャスティはその一員である」という疑いが晴れたのだ。キャスティはまっすぐ船長の目を見て言った。
「船長さん、あの時私を助けてくれて本当にありがとう。おかげで戴冠式を雨から守ることができたわ」
船長はふっと表情を崩した。
「いいや。……お礼を言いたいのは俺の方なんだ」
きょとんとするキャスティの前で、船長は口の横に手をあてて声をひそめた。
「今日になって朝が来るまで、長いこと夜が続いてただろ?」
いきなり核心を突かれ、動揺が走る。やはり気づいている人がいたのだ。
夜が続いていた間、キャスティたちはなるべく早く光を取り戻そうとあちこち駆け回っていたので、ろくに人里で情報収集できていなかった。それに、どこの町も一見した限りでは大混乱に陥っておらず、ひとまず放置していたのだ。
船長の話は続く。
「俺はその間も定期船を出してたんだが……遭難せずに済んだのは、ここの灯台があったおかげなんだ」
キャスティははっとして町の灯台を仰ぎ見る。そろそろ日が暮れてきて、今は点火の準備をしている頃だろうか。あそこの灯台は、しばらく前に反射板が割れるという事故があって以来光が弱まっていた。それが復活したのは、キャスティたちが遠くの灯台から予備の反射板を持ってきたからだ。
船長は笑う。
「あれもキャスティさんがやったって灯台守から聞いてな。俺はずっとお礼を言いたかったんだよ」
「そんな……いいのよ。私たちも明かりがないと夜の航海ができなかったもの」
キャスティは慌てて顔の前で手を振る。すると、船長はいっそう声を低めた。
「それだけじゃない。俺は少し前に、海の真ん中で変な島を見たんだ」
話を聞いたパルテティオが首をひねる。
「変な島?」
「あっ……もしかして」
ソローネが口をつぐんだ。キャスティも思い当たることがあって、とっさにテメノスと視線を交わした。船長が言う場所が、まさに地図における海の中心だとしたら――
「あんなところ今まで何もなかったのにな。遠目で見ただけだけど、でっかいトゲトゲした島だった。で、そこにあんたたちの船が向かっていくのが見えたんだよ」
船長はパルテティオの船を指差す。無塗装の船は傾いた日差しに優美な外観を晒していた。パルテティオは中途半端に笑って目を泳がせる。
「その船を見送った後、定期船がカナルブラインにたどり着いて……ちょうど朝が来たんだ」
説明に困ったキャスティは仲間たちを順繰りに見つめる。だが、さすがに誰もうまい説明が思い浮かばないようだった。
「えっとね、船長さん……」
それでもキャスティが口を開くと、船長は手を振って遮った。
「よく分からんが、きっとあんたらがどうにかして朝を取り戻してくれたんだろ? ありがとよ。よくやったな、キャスティさん」
ぽん、と彼女の帽子の上に何かが載った。それは船長の大きな手のひらだった。キャスティは何度も瞬きする。まるで小さな子どもに対する仕草のようだ、と気づいた瞬間にほおが燃え上がった。
「は、恥ずかしいわ……」
思わず横目で仲間の様子を確認した。気まずいのか、彼らは不自然に目をそらしていた。
邪神を倒したことについて、直接お礼を言われるなんて考えもしなかった。キャスティとしては結果的に人々が朝を迎えられたら、過程など誰も知らなくて構わなかったのだ。しかしパルテティオは「それは寂しい」と言っていたし、こうして感謝されると彼女の胸にも特別な感慨が湧いてきた。
やがてキャスティの頭から手を離した船長は、仲間たちに笑顔を向ける。
「あんたらもありがとう。これからもキャスティさんのことをよろしくな」
「おう! 任せとけ」
顔の向きを戻したパルテティオがどんと胸を叩く。横からテメノスが口を挟んだ。
「……パルテティオ、絵本の件を忘れないでください」
商人はあっと声を上げる。余韻に浸っていたキャスティも、急いで意識を引き戻した。
「やべ、そうだった。なあ船長さんよ、俺たち探してるもんがあるんだが……」
彼は手早く経緯を説明した。船長はうんうんと相づちを打つ。
「キャスティさんの記憶のヒントか。よし、探してみよう」
船長は定期船を回り込むように波止場を歩き、何やら作業している船員のもとに行くと、積み荷の場所を聞き出した。
案内された先は、港に並ぶ倉庫のうちの一つだ。柱のない大きな空間の中に、木箱がいくつも積み上がっている。一番上の木箱はオズバルドの背丈よりもはるかに高い位置にあった。
船長は申し訳なさそうに言った。
「本があるとしたらこの中らしい。目録の整理がまだだから、全部開けて確かめるしかないが……」
十ではきかない数の箱を見上げ、キャスティは袖をまくり上げる。
「分かったわ。船長さん、案内してくれてありがとう。本が見つかっても見つからなくても、後で挨拶に行くわね」
仕事に戻る船長を見送った後、彼女は仲間たちの顔をじっくりと眺めた。
「みんな、良ければ最後まで手伝ってくれるかしら」
三人はそれぞれ首肯する。
「もちろんだよ、キャスティ」
「とはいえ、これはちっと骨が折れそうだな……」
パルテティオがこぶしを鳴らしながら顔をしかめた。その隣で何かを思いついた様子のテメノスが、箱の山を手で示す。
「ソローネ君は身軽ですから、上に積まれた箱を頼みます。あとは調べた箱が重複しないよう、それぞれ担当する列を決めましょうか」
「分かったわ」
四人は分担どおりに動いた。木箱は大きく、ただ開け閉めするだけでも時間がかかった。気づけば倉庫の高窓から夕焼けが差し込む時刻になっていた。
ひときわ高い場所にある箱の上にいたソローネが、ジャンプして床に降りてきた。彼女はキャスティに向かって一冊の本を差し出す。
「これじゃない? どう、キャスティ」
表紙に描かれているのは水色の薬瓶だ。しかもタイトルに霊薬公ドーターの名前が冠されている。キャスティは返事も忘れて受け取り、夢中で本を開いた。寄ってきたテメノスが本を見てうなずく。
「これは霊薬公が調合の技術を人間に授けた時の話ですね」
「あー、マスウードの商売録にあったやつか」
パルテティオの声を聞きながらページをめくる。すると、記憶にかかっていたもやが晴れていき、ある景色がぼんやりと頭に浮かんできた。
――昔もこうして小さな手で紙をめくったものだ。そう、幼いキャスティのそばには、絵本を読み聞かせてくれる誰かがいた。
倉庫に降りた沈黙の中、最後まで読んだキャスティは本を閉じて、ぼそりとつぶやいた。
「これ……違うわ」
「えっ!?」
ソローネが珍しく驚きをあらわにした。キャスティはかぶりを振る。
「ごめんなさい、私の勘違いだったみたい。だってあの本は……私の親が手作りしたものだったから。それを今、思い出したの」
思い返せば、こういう絵本が印刷されて流通しはじめたのは、キャスティの幼少期よりも少し後だ。彼女の親は、おそらく教会などで聞いた話をもとに絵本を作ったのではないか。題材にした神話が同じためか、内容自体は似通っていた。表紙の色が共通していたのは、霊薬公のモチーフと言えば薬瓶であり、水色で描かれるのが一般的だからだ。
「あー、そもそも流通してる本じゃなかったのか!」パルテティオが悔しげにこぶしを握る。
「それじゃ、キャスティの絵本はもうどこにも……」
ソローネが沈んだ声を出した。その憂いを吹き飛ばすべく、キャスティはしっかりとうなずく。
「私の記憶にしかない――いいえ、違うわ。ちゃんと頭の中には『ある』んだから」
彼女はその絵本を大事に抱えて倉庫を出た。仲間たちを先導するように歩き、外で船員たちとともに休憩していた船長のもとに向かう。
近づいてくるキャスティたちに気づいた船長は腰を浮かせた。
「お、見つかったのかい」
「ええ。船長さん、この本を私に売ってちょうだい」
すると仲間たちがざわつく。
「キャスティ、それは探していたものとは違う本では?」
テメノスに指摘されたが、キャスティはかぶりを振った。
「いいの。この本のおかげで大事なことを思い出せたんだから」
それなら、と船長が金額を提示する。パルテティオが交渉に入る前に、キャスティ自身が代金を払った。自分のものになった絵本を抱いた彼女は、船長に心からの笑顔を向ける。
「船長さん、また会いましょうね」
「ああ。それまでお互い元気でな」
船長とは手を振って別れた。
しばらく波止場を歩き、パルテティオの船の近くで立ち止まる。足元に長い影が落ちた。沈みかけの太陽の残滓により、海は暗いオレンジ色に染まっている。半日ほど町をうろうろして、またスタート地点に戻ってきたわけだ。
「みんな、今日は手伝ってくれてありがとう」
キャスティは三人の仲間に笑みを向ける。ソローネがなびく髪を押さえ、穏やかな顔で問うた。
「どういたしまして。それで、何か思い出せたの?」
「うっすらとね。親に絵本を読み聞かされた記憶が、頭の空白部分にすっと浮かんできたの。みんなのおかげよ」
「それはいい思い出ですね」
「苦労した甲斐があったぜ……キャスティもおつかれさん!」
テメノスが静かにほほえみ、パルテティオは誇らしげに鼻の下を指でこする。
日は完全に落ちた。灯台に明かりがつき、反射板で増幅された光が暗闇を切り裂く。
「夜ですね」とテメノスが言う。
「ちゃんとまた朝が来るんだよな? ちょっとドキッとするよな」
パルテティオが苦笑いした。「目が覚めたら暗黒だった」という状況はもう二度と経験したくないし、つい身構えてしまう気持ちは分かる。キャスティは皆を安心させるため、夜空を指差した。
「大丈夫よ。ほら、あれを見て」
そこには一番星が輝いていた。ソローネが口笛を吹く。目が慣れると、宝石の粒のような星々が黒いキャンバスに散らばっていることがよく分かった。
空を見上げたキャスティは自然と唇を動かす。
「やっぱり朝と夜が交互に来る方がいいわ。今私の目の前にいない人たちにも、これだけは当たり前に届かなくちゃいけないのよ」
結局、彼女が邪神やそれに与する者たちと相容れなかった点はそこだったのだろう。明日を夢見ることができなかった彼らの分も、キャスティは生きていくつもりだった。
不意にソローネが右隣に並び、小さくつぶやいた。
「……なんで私がキャスティについてきたのか、今分かったかも」
「え?」
盗賊は程よく力の抜けた、少し子どもっぽい顔でにっこり笑った。
「星とか聖火とか、目に見える明かりもたくさんあるけど……私たちにとってはキャスティが灯台だったんだよね」
その言葉を咀嚼する間に、今度はテメノスが左隣に出る。彼はいつの間にかランタンを持っていて、仲間の足元を照らしていた。
「キャスティ。あなたは私たちがこれからやるべきことを、いつも一番最初に言葉にしてくれます。邪神と対峙した時もそうでした。だから皆もあなたを指針にできたのでしょう」
「そうそう、私もそれが言いたかったんだよ。ほら、今度は私たちが照らしてあげる番だからさ」ソローネが片目をつむり、
「今夜は飲み明かそうぜ!」
パルテティオがキャスティの後ろから勢いよく肩を叩いた。
仲間たちから溢れんばかりの思いを受け取ったキャスティは、満ち足りた心地で相好を崩す。
「ええ、行きましょう」
この時間帯なら、宿ではなく酒場に直行すべきだろう。もうヒカリたちはテーブルについて待っている頃だろうか。飲む気満々の仲間たちのためにも、どこかのタイミングで二日酔いの薬を用意しておきたい。昨日までは未知の攻撃に対応する薬ばかり練っていたことを思えば、それはずいぶん心休まる調合だった。
その時、汽笛の音が闇を貫いた。定期船の夜の便が出港するのだ。すうっと岸辺を離れていく船を、四人はしばし立ち止まって見送った。
明かりの導きに従う船を眺めながら、キャスティは考える。
(他の誰よりも灯台が必要なのは……きっと私だったのね)
今なら夢の中でマレーヤが言おうとしていたことが分かる。そうだ、彼女は下を指していた。あれは「ちゃんと足元を見ろ」という意味だったのだ。
使命を果たすために前ばかり見て歩いていたら、キャスティはいつか暗闇の中で転んでいたかもしれない。甦ったほのかな記憶は、きっとこれから一人で歩む彼女の足元を照らしてくれるだろう。船長が教えてくれた、今までの旅で積み上げてきたことだって、その光のひとつだ。
今、胸に灯った小さな火はいくつも重なり、まばゆいほどに膨らんでいた。キャスティの船出はもうすぐだ。