心の地平を照らすもの 2

 小舟がしずしずと水を切って岸に近づいてくる。テメノスはつかの間疲労と寒さを忘れ、闇の中に浮かび上がった仲間の姿を呆然と見つめた。
 舳先に足をかけたキャスティが安堵の笑みを浮かべる。彼女の掲げたランタンがまばゆくあたりを照らした。つまり、彼女が小舟を操っているわけではないのだ。
「テメノスの様子はどうだ、キャスティ」
 薬師の向こう側から冷静な問いかけがあった。この声はヒカリだ。さすがにキャスティ一人で来たわけではないと知り、テメノスはほっとした。
「服は濡れているけど、無事みたい」キャスティは肩越しにヒカリに返事してから前に向き直り、手を差し伸べる。「テメノス、乗り移れる?」
 とはいえ水の流れが速く、小舟の位置は安定しなかった。テメノスは立ち上がって周囲を見回す。すぐに目当てのものが見つかった。
「ロープはありませんか。ここに舟を係留できます」
 テメノスは岸に突き出た杭を手で示した。キャスティが目を丸くする。
「誰かがここに来たってこと?」
「おそらく、何度も行き来していたのではないかと」
「なら私たちがそっちに行った方が早そうね。ちょうど休ませたかったのよ」
 発言の意味を取りかねたテメノスが疑問符を浮かべているうちに、小舟からロープが投げられた。なんとか掴んで杭に結びつける。パルテティオの船に乗った際に習った結び方なので、そうそう外れないだろう。
 ヒカリの操舵により小舟が岸と平行に並んだ。テメノスは先ほどと反対に、キャスティに向かって手を差し出す。彼女は迷いなくその手を取って岸に降り立った。間近で見ると、彼女が神官のワンピースを着ていたことが分かる。
 次はヒカリかと思って小舟を確認すれば、もう一人知り合いが乗っていた。先ほどはキャスティの影に隠れて見えなかったのだ。
「騎士殿、飛び移るぞ」
「ああ……」
 ヒカリに促され、よろよろと舟の上に立ったのは聖堂騎士オルトである。相当消耗しているようだ。テメノスは目を見開き、とにかく二人に手を貸そうと前に出た。しかしオルトはふらついている上に鎧を着込んでいる。自力で岸に移動するのは難しいのでは――
「すまない、俺の背に乗ってくれ」
「え?」
 ヒカリはぽかんとするオルトの腕をとって有無を言わせず背負ったかと思うと、勢いよく小舟から踏み切った。商人の黄色い衣装がひらりと舞う。彼らは冗談のように高く跳んで、だん、という大きな音とともに着地した。ヒカリの両足に二人分の体重がかかったわけだが、彼はびくともしていなかった。
「さすがヒカリ君ね」
 キャスティが小さく拍手する。鎧を着た男性をああも簡単に運べるとは、やはり基礎的な膂力が違うな、とテメノスは内心舌を巻いた。
 オルトは「助かった」とヒカリに礼を言ってから、ゆっくりとテメノスの方に近寄ってきた。妙に長い棒を持っていると思えば、礼拝堂でテメノスが落とした杖である。反対の手には戦闘前に床に置いた鞄まで持っていた。
「テメノス審問官、これを」
「どうも。……杖はしばらく支えに使っても構いませんよ?」
 控えめに提案すると、オルトは唇を噛んだ。
「遠慮しておく。あなたも無事だったようで何よりだ」
 荷物を受け取ったテメノスは黙ってうなずく。戦闘中、オルトに思いっきり呼び捨てにされた件はあとで問い詰めよう。
「想像以上の距離を泳ぐ羽目になりましたがね。それと……礼拝堂で拾った例のものですが、水に落としてしまったようです。あれについては後で考えましょう」
「そうか」
 オルトは残念がる様子もなくあっさりとうなずいた。テメノスはそばでランタンを掲げる薬師に視線を戻す。
「彼の容態は?」
「簡単に手当てはしたわ。しばらく休んでほしかったけど、あなたを探すと言って聞かなくて……」
 キャスティが目を伏せた。テメノスは浮かない顔をしているオルトをちらりと見やる。
「まあ、無事に合流できたのでよしとしましょう。それで、どうしてキャスティたちがここに?」
 それが一番の疑問である。今回の地下探索はその場の思いつきであり、無論誰にも知らせていなかった。どうにかしてテメノスたちの窮状に気づいた二人がオルトを救出した、という流れだろうが――
 軽く頭を振ったキャスティは、肩にかけた薬鞄を開けた。
「テメノス、話の前にこれを」
 彼女が差し出したのは学者のコートだった。いつもテメノスが戦闘時に着ているものだ。彼は目を丸くする。
「服がびしょびしょだからちょうど着替えになるわね。ライセンスも余りを持ってきたわ」
「助かります、キャスティ」
 実に用意がいい。乾いた布と服を受け取ったテメノスは、壁際に行って着替えることにした。その間、キャスティは彼に背を向け、オルトの治療に専念することにしたようだ。
 水を吸って重くなった神官服を脱ぎながら、テメノスは横でランタンを持って光源を確保するヒカリに尋ねた。
「何故この場所が分かったんですか?」
「ああ、それはな……」
 ヒカリは水路の暗がりを見つめて眉をひそめる。
 ――彼らがフレイムチャーチ村でオルトと会ったのは、夕食後にテメノスと別れてしばらく経った頃である。「挨拶したい」と言って聖堂騎士が宿を訪ねてきたのだ。キャスティが「テメノスは大聖堂に行った」と伝えると、オルトは彼女に見送られて山道を登って行った。
 それからほとんど間をおかず、ヒカリが異変に気づいた。
「宿の部屋でカーテンを閉める時、窓の外が目に入ってな。木立の中に、俺の視線を避けて隠れた者がいた」
 幼い頃から命を狙われることがあった彼は敵意に敏感だ。ほとんど肌感覚で察知しているというから壮絶である。
 ヒカリから報告を受けたキャスティは彼と一緒に外を歩いてみたが、それらしき人物は姿を消していた。ここで問題になるのは相手の正体と目的だ。キャスティは「もしやテメノスやオルトが狙われているのでは」と考えた。今まで彼女たちの周囲に怪しい影が湧くことは何度かあったが、今回はオルトの後を追うように現れて、すぐに消えたことが気にかかったのだ。ヒカリもその意見に同意し、二人は夜の大聖堂に赴くことにした。
 他の仲間は深酒したりすでに休んでいたりしたので、比較的元気そうだったソローネに事情を話して後を頼んだ。念には念を入れて戦闘態勢を整え、予備の学者の服とライセンスも持ち出した。
「何もなければそれでいい、って思っていたんだけどね……」
 キャスティがこちらに背を向けたまま少し声を落とす。仲間たちが交代で語る経緯を、テメノスは神妙な気分で聞いていた。
 ――静まり返った山道を登ったキャスティたちは、あえて明かりを消して大聖堂前の広場を訪れた。ひとけのない時間帯でも聖火は昼間と同様に燃え盛り、その背後にそびえる大聖堂は消灯されていて、扉の前の聖堂騎士もいない。一見どこにも異常はないが、ヒカリの提案によりしばらく茂みに隠れて様子を見ることにした。
 すると、先ほどの怪しい影と同一人物と思しき男たちが、闇に潜むように広場を横切りどこかへ駆けていった。嫌な予感を覚えたキャスティたちが追いかけた先には、森の中にひっそりと佇む小屋があった。男たちは小屋に入っていき、入口に一人の見張りが残った。
「どう考えても怪しいでしょう。もう無我夢中で突入したわ。私が見張りを眠らせた後、小屋の中にあったはしごを降りて地下に向かったの」
「なるほど……」
 キャスティが予想以上に強引な手段をとったことに対しテメノスは驚いたが、救助された側が口を挟むことではないだろう。
 ――地下通路を進むうちに、二人は敵と切り結んでいるオルトと出くわした。その時点で騎士は相手を残り二人まで減らしていたらしい。ヒカリたちが加勢し、戦闘はあっという間に片付いた。気絶させたフードの男たちは、縛ってその場に放置したそうだ。
「その後、オルト殿からそなたが水に落ちたと聞いたのだ」
「ちょうど入口に舟があったでしょう。それを使ってあなたを探そうと思って、慌てて引き返したのよ」
 そして夜光塗料のおかげでテメノスを発見したわけだ。彼は黒いコートに袖を通しながらつぶやく。
「地下につながる小屋は、ヴァドスが工事の時に使っていたものですね。地下水路が完成した後も残されて、今はただの倉庫になっていますが……」
 一度クリックとともに通り抜けたことがあった。地下礼拝堂で出くわした男たちは大聖堂の反対側からやってきたので、筋は通る。キャスティが首肯した。
「ヴァドスについてはオルトさんから少し聞いたわ。取り調べの調書が見つかって、協力者について調べてるのよね」
「そうです。思わぬ邪魔が入りましたが……。オルト君たちが倒した四人は、後で審問しに行きましょう」
 テメノスは服のボタンをすべて留め、ヒカリからライセンスを受け取った。これで着替えは完了だ。濡れた神官服はかたく絞り、丸めて自分の鞄に突っ込む。
「キャスティ、もういいですよ」
 と言うと彼女はくるりと振り返り、「今度はあなたの番ね」と鋭く目を細める。
「怪我はない?」
 一切の嘘を許さない薬師の質問である。テメノスは落ち着いて答えた。
「着替える時に確認しましたが、特にありません。水に落ちる前に背中を殴られたので、痣になるかもしれませんが」
「なら、あとで湿布を処方するわ」
 キャスティはじっと見つめてきた。まさか怪我を隠しているとでも疑っているのだろうか。テメノスは「大丈夫ですから」と念を押しておいた。
 彼の着替えの間に、オルトは小手を外した腕に包帯を巻かれていた。嗅ぎ慣れた消毒液の匂いがぷんと漂う。騎士は少し回復した様子で立ち上がり、
「それで、ここはなんなんだ?」
 壁に夜光塗料で描かれた円を指差す。まるで何かの印のようだ。岸辺にあった杭の件も含めて、誰かが――おそらくヴァドスがここに来ていたことは間違いないだろう。
「少し調べてみましょうか」
「俺たちも手伝おう」
 ヒカリが申し出て、他の二人も賛同した。テメノスがもう一つランタンを灯し、四人で手分けしてあたりを探る。
 壁と水路に挟まれた岸辺は、壁沿いに伸びる通路のような形状をしていた。小舟を係留したあたりが先端で、反対側にしばらく道が続いている。ヒカリが軽い足取りでそちらに歩いていった。
「行き止まりのようだ」
 しかし、彼はすぐに突き当たりの壁に手をつく。
「ふむ……」
 テメノスも彼の横に並んで壁に顔を近づけた。ランタンをかざしてなぞるように下から上まで観察する。石を積み上げたごく一般的な壁だ――が、垂直方向に直線の切れ込みがある。よく見ると扉の形をしていた。
「なるほど、これが隠し部屋か!」
 オルトがぽんと手を叩いた。その隣でキャスティが首をかしげる。
「でも、どうやって入るのかしら」
「そうですね……近くにスイッチでもあるのでは」
 四人がかりで壁を確かめた。ちょうどテメノスが探っていた範囲に、不自然に飛び出た石材があった。試しに押してみると、扉の部分に取っ手が浮き上がった。
「おお」とオルトが歓声を上げる。ふっと笑ったテメノスは取っ手を掴んで石の扉を開いた。
「さあ、真実を探りに行きますよ」
 とたんにカビ臭さが鼻腔を襲う。四人は慎重に内部に足を踏み入れた。隠し部屋はがらんとしていた。家具といえば引き出しつきの机と背もたれのある椅子、それに本棚程度だ。
 テメノスは机の上に地下通路の見取り図が置かれていることに気づいた。図面にはしっかりとヴァドスの名でサインが残されている。
「十中八九、建築士ヴァドスのアジトでしょうね」
「まさか本当に見つけるとはな……」
 オルトは腕組みして唸っていた。「一晩で解き明かす」というテメノスの発言をホラだと思っていたのだろう。テメノスは白い目で騎士をにらんでから説明する。
「いつか地下水路を大聖堂への侵入経路として使うことを見越して、工事の時点でアジトをつくったのでしょうね」
「ここに協力者の証拠があるかもしれないのね?」キャスティが緊張した面持ちで問う。
「ええ。ヴァドスの手記でも残っていれば話は早いのですが、まあ誰でも彼でも手記を残していたら世の中の探偵は苦労しません」
「確かにな」
 ヒカリの声には苦笑の響きがあった。
 四人はうなずきあって部屋の中を探索しはじめた。テメノスは奥の本棚に直行する。が、本は一冊も残っていなかった。ヴァドスが片付けたのだろうか? あるいは協力者か、彼を殺した犯人か。
「テメノス、これを」
 机の引き出しを漁っていたヒカリが少し硬い声を発した。どうしたのだろうとテメノスがそちらに向かえば、ヒカリは手のひらを差し出す。そこに三日月をかたどった首飾りが載っていた。
「それは月影教の……!」
 寄ってきたオルトが顔色を変える。テメノスは苦い気分で首飾りを受け取った。
「どうやら、ヴァドスに協力者がいたというのは事実のようですね」
 おまけに月影教といえば、カルディナの宿敵ではないか。
 テメノスはカナルブラインの聖堂機関の船上でヴァドスと対峙したことを思い出す。あの時、ヴァドスは明らかに聖火神とは別の神の名を語っていた。あれはわざと異端のふりをして捜査をくらませようとしたのではと解釈していたが――ヴァドスが月影教の信者であったなら、月影教自体が邪神を崇拝している可能性がある。
 じっと考え込むテメノスのそばで、オルトが苦々しい声を絞り出した。
「つまり、ヴァドスはカルディナを裏切っていたのか。だが何故だ? 月影教はカル族の仇のはずだろう」
「……分かりません。判断材料が足りませんから」
 悔しいが、現時点ではそう返事するしかなかった。これならクラックレッジで出会ったリエザにもう少し詳しい話を聞いておくべきだったか。だが彼女も月影教を裏切った立場なので、あれ以上の協力を求めるのは酷である。
 ヴァドスはどの時点からカルディナを裏切っていたのだろう? 相当大きな理由がなければ、よりによって仇敵に手を貸すはずがない。彼の価値観が根本からひっくり返るような出来事でもなければ――
 発想が飛躍しかけて、テメノスは息を吐いた。今の状態でこれ以上考えを進めるのは危険だ。
「とすると、ヴァドスは裏切りがばれて聖堂騎士に殺されたのか……?」
 ちょうどオルトが別の疑問を呈したので、テメノスはそちらに推理の舵を切った。
「それならわざわざ調書を残す必要はないでしょう。……おや」
 ふと見やると、キャスティとヒカリが不思議そうな顔をしていた。どうも話についてきていないようだ。さてはオルトが説明を省いたなと思い、テメノスは簡潔に経緯を話した。見つかった調書の真偽が疑わしいこと、ヴァドスを殺した犯人が未だに不明であることを。
「そうだったのね……」
 カナルブラインでヴァドスと交戦した経験のあるキャスティは顔を曇らせる。人を生かすために努力を重ねる薬師にとってはシビアな話だっただろう。
 しばし四人は無言でそれぞれの思索に集中した。
「ねえ、どうしてここに首飾りがあるのかしら」
 沈黙を破ったのはキャスティだった。男三人の視線を受けた彼女は落ち着いて続ける。
「確か、クラックレッジにいた月影教の人たちも同じ首飾りをつけていたわよね。もしかすると、さっき戦ったフードの人たちも持っていたのかも。月影教の信者は肌見離さず身につけているみたいだけど、ヴァドスは首飾りを持ち歩いていなかったのね」
「万が一でもカルディナに裏切りが悟られないよう、ここに保管していたんじゃないか。いや……ならどうして裏切りがばれたんだろうな」
 オルトが首をひねる。その時、テメノスの脳裏に雷鳴のようにひらめくものがあった。
「そもそも、カルディナはヴァドスの裏切りを知らなかったのかもしれません。彼が聖堂騎士ではなく月影教に殺されたのだとしたら、辻褄は合います」
 精神を集中しなくとも、テメノスはヴァドスが首飾りを残してここを出ていく場面をありありと思い浮かべられた。ただし、建築士の表情は読めない。
「そうか。たった二人の生き残りだから、ヴァドスは裏切りの事実をカルディナに知られたくなかったのだな……」
 ヒカリが伏し目がちに言う。「友」に対して思うところがある剣士らしい発言だろう。それはテメノスがあえて言及を避けた部分でもあった。
 ヴァドスが首飾りを置いていったのは、カルディナという同族への最後の義理だったのかもしれない。だが、結局彼は月影教に殺されてしまった。おそらく月影教にとってはもう利用価値がなくなったのだ。
 ――裂け岩の遺跡でテメノスと対峙したカルディナは、妙に焦っていた。土壇場で敵対者のテメノスに向かって「部下になれ」と支離滅裂な提案をするくらい追い詰められていた。それが、唯一の同胞が殺されたためだとしたら。
 テメノスは真実を追いながらも、カルディナの言葉の裏に潜むものを解き明かそうとはしなかった――
 彼はやるせない気分を払うようにかぶりを振る。
「死者の考えは分かりません。とにかく、月影教がヴァドスを殺した可能性は高そうです」
「ああ、ヴァドスの調書も月影教が捏造したかもしれないのか。それについては私が調べよう」オルトは得心がいったように手を叩いてから、不意に肩をすくめた。「……わざわざ『協力者』の存在を示唆して自分たちに注意を向けるなど、月影教も脇が甘いな」
「そうですね」
 表面上は同意しながらも、テメノスは頭の隅で考える。月影教はそんな些事など気にしないくらい強固な組織なのかもしれないと。
(いや、それでも今回は大きな手がかりを得られた。いつか……油断したことを後悔させてやる)
 ぎゅっと首飾りを握った。大切な友人たちを死の淵に追いやったのも月影教の仕業だとしたら、暴かない理由などない。テメノスは首飾りをしまいこみ、断罪の杖を床につく。
「ところで、オルト君たちが捕らえた男は縛って通路に転がしているのですよね。彼らからも追加で情報をいただきましょうか」
 おそらく彼らは月影教の信者だ。今晩地下にやってきたのは、キャスティたちの推測どおりオルトを尾行していたからだろう。偽の調書に泳がされたオルトがテメノスを訪ねたところを一網打尽に、とでも目論んでいたのかもしれない。そう考えると、キャスティたちが応援に来てくれて本当に助かった。
 そこでテメノスの思考は別方向に飛ぶ。
(礼拝堂に落ちていた「例のもの」を信者たちが探していたのは何故だ……?)
 あれもヴァドスに関するものだったのだろうか? 感触からすると三日月の形ではなかったが。やはり審問によって明らかにするしかなさそうだ。
「ああ、すぐに案内しよう」
 オルトが背筋を伸ばして快活に応えた。薬師の看護のおかげか、いつの間にかずいぶん回復した様子である。
 収穫を得た四人は部屋を出て小舟に乗り込んだ。再びヒカリが率先して船頭を務める。彼は実に堂にいった舵さばきで水路を進んでいく。
「慣れていますね、ヒカリ」
「城下町に住んでいた頃、よく民を乗せていたからな」
「そうなんですか? 確かあなたは領主をしていたのでは」
 からりと笑う剣士に、テメノスは驚いた。ヒカリの身分ならむしろ舟に乗せられる側ではないか。
「領主といっても名ばかりだ。友に請われれば、水路を使って荷運びもしていたぞ」
「それは……どうりで国民に慕われるはずですね」
 兄を討つための戦力を集めたヒカリが故郷に舞い戻った時、町で大歓迎されたことは記憶に新しい。彼の操る小舟は最小限の揺れで水面を滑っていくので、きっと民にも人気だったのだろう。
 会話を区切ったテメノスは船の前方に視線を戻す。一番端にいるオルトに今の会話は届かなかったらしく、彼はじっと対岸を眺めていた。その手前、つまり小舟の中央にはキャスティがいる。普段ならテメノスたちの会話に口を挟みそうな彼女だが、今はとても静かだった。
 薬師は小舟のへりに肘をつき、ぼうっと黒い波を見つめている。心ここにあらずといった様子だ。
「……あの、キャスティ? もしかして疲れていますか」
 声が波音に紛れないようにテメノスは少し体を近づける。彼女は弾かれたように振り向いた。
「え? そう見えたかしら」
「はい。いつもあなた自身が言っていることですが、無茶はしないでくださいね。もう夜も遅いですから」
 気遣われたキャスティは自分のほおを片手でなでる。それからかぶりを振った。
「眠気はないから大丈夫。今ね……ヴァドスのことを考えていたのよ」
 青目が憂うように細められ、テメノスは軽く息を呑んだ。彼女は一度、あの建築士を治療しているのだ。聖堂機関の船で武器を交えた後、カルディナに引き渡す前に。
 地下の淀んだ空気が金の髪を揺らした。キャスティは波の彼方に視線を飛ばす。
「ヴァドスは一族の仇に協力していた。でも、カルディナには自分の裏切りを知られたくなかったのよね」
「彼の心境に関しては、あくまで私たちの想像に過ぎません。少なくともカルディナを裏切っていたのは事実でしょう。……彼がカルディナに間違った儀式を教えた可能性すらあります」
 テメノスは平静を保って言葉を紡ぐ。真実を追う際は同情心など挟むべきでない、という自制が働いていた。キャスティは指を一本ぴんと立てる。
「よっぽどのことが起こらない限り、そんなに急に心変わりなんてしないわよね。まさか記憶喪失ではないだろうけど」
「そうですねえ」
 冗談のような調子で言われたので、テメノスはどう答えていいか分からなかった。そこで、ふっとキャスティが表情を引き締める。
「……トルーソーのことを思い出したの」
 テメノスはどきりとした。それは今キャスティが追いかけている、死毒をばらまく薬師の名だ。事情は断片的に聞いていた。その男はかつてキャスティが団長を務める薬師団に所属していたが、突然豹変して人々の命を奪った挙句、彼女の記憶喪失の原因にもなったらしい。
 キャスティは不透明なまなざしを闇に投げる。
「昔は本当に献身的な薬師だったのよ。でも途切れ途切れの記憶の中で、ある時を境にまったく別人のようになってしまった……。
 私たちの前でずっと本性を隠していたとは考えにくいわ。それこそ病気の可能性もあるけど、行動が反転するくらいの大病なら体の方にも異変があるはずよ」
 彼女の言いたいことを察したテメノスは、つばを飲んで台詞を引き継いだ。
「つまり、そのような豹変があるとすれば、原因は精神干渉の術のたぐい……でしょうね」
 それこそ「審問」のような。
 知らず知らずのうちに背中を冷や汗が流れる。キャスティは、ヴァドスやトルーソーの急激な変心が同じ存在によって引き起こされたのでは、と示唆していた。
「あなたは月影教の誰かがそれをやったと考えているのですか?」
「分からないわ」
 キャスティは力なく首を振った。
 この謎にはどうにも背筋の寒くなるような不気味さがつきまとった。テメノスが黙り込んだので、薬師が慌てたように顔の前で手を振る。
「あ、今のは全部私の憶測よ。推理の邪魔だったらごめんなさいね」
「いえ、参考になりました。心に留めておきます」
「それは良かったわ」
 キャスティはほほえみ、それから何故かじっとテメノスに視線を向けた。
「……どうかしましたか?」
「えっと、その、背中は大丈夫なの」
 おずおずと質問が返ってくる。痣になるかも、と申告した箇所のことだ。彼女らしい心配だった。テメノスは殴られたあたりをコート越しに触ってみた。
「今のところは。このまま何ごともなく済んでほしいですね」
 現在は一種の興奮状態にあるためか、痛みはなかった。彼女は「そう……」とうなずいてから再び水面に目を戻した。
 そうこうするうちに向こう岸についた。小舟を降りたオルトは怪我を物ともせずにずんずん進んでいく。やがて見覚えのある地下礼拝堂に戻ってきた。
「確かこのあたりに……うん?」
 オルトはきょろきょろする。テメノスがランタンで照らしたが、開けた広場には誰もいなかった。その代わり、テメノスが足を踏み外した周辺は見事に崩落している。床をよく見ると一部だけ埃が積もっておらず、そこに男たちが倒れていたことが分かった。
 ヒカリが険しい顔になった。
「俺たちが目撃した以外にも仲間がいて、そちらに回収されたのかもしれん」
「そうだわ、入口の見張りは眠らせただけだったから、目が覚めたら普通に動けるわね……。ごめんなさい、詰めが甘かったわ」
 眠り薬を調合したキャスティがしゅんとする。テメノスはつい反論した。
「私たちとの合流を優先したからでしょう。その場では最善の判断ですよ」
「……なんだ、案外優しいな」
 オルトが訝しむような声を出した。テメノスはじろりと騎士を見る。
「もちろん、君の落ち度だったら容赦なく責めましたが」
「扱いの差がひどすぎるだろ!」
 耐えかねたようなオルトの叫びが地下に響き渡った。ヒカリが目を丸くし、キャスティが「あらあら」と笑う。
 とはいえ、テメノス自身も重要証拠をなくすという失態をやらかしていた。あまり他人を責められる立場ではない。
「それで、先ほどの男たちだが、俺は出口で待ち伏せしていると思う」
 気を取り直したヒカリがそう進言した。テメノスもうなずく。
「逃げたわけではないでしょうね。相手はこちらを狙っている上に、数的優位があるのですから」
「目撃者は生かしておけない、ということか……」
 オルトが苦虫を噛み潰したような顔で唸った。キャスティが腕組みする。
「この通路の出口は私たちが使った小屋側と、テメノスたちが入ってきた大聖堂側があるのよね。両方で待ち構えているのかしら」
「いえ……予想はつきますが、とりあえず行ってみましょうか」
 一行はテメノスの先導によって大聖堂側の出口に向かった。
 が、そこには誰もおらず、代わりに地上へと続くはしごが壊されていた。
「蓋が閉まっている。ロープをかけても上れそうにないな」
 天井を見上げたヒカリが顔をしかめた。想定通りだったのでテメノスに焦りはなかった。
「秘密の出入口がある可能性を除外すれば、敵がいるのはヴァドスの小屋側で間違いありませんね」
「まさか正面から突っ込むのか?」オルトが眉をひそめる。
「それしかないでしょう。私たちなら並大抵の相手には負けません」
「そうかもな」
 ヒカリが表情を緩めたので、テメノスは「期待していますよ」と言って軽くその腕を叩いた。キャスティもにこにこして一言も心配を口にしない。オルトだけが目をぱちくりさせていた。三人の自信の源が分からないのだろう。
 もう隠れる必要もないということで、四人はランタンをつけたまま下流側に向かって通路を歩いていった。
 オルトが先頭をゆき、続くキャスティがさり気なく騎士の容態に気を配る。ヒカリは少し歩調を落として最後尾のテメノスと並んだ。
「……キャスティのことだが」
 小声で話しかけられ、テメノスは多少身構えた。ヒカリは瞳に懸念の色をにじませる。
「巡礼路を登っている時からそなたを相当心配していた。顔には出さないようにしているらしいが」
「そう、なんですか?」
 着替えの時や、小舟での意味深な視線はもしやそのためか。そこまで不安がらせるようなことをしただろうか、と思い返す。テメノスの考えを察したのか、ヒカリがかぶりを振った。
「怪我の心配だけではないと思う。……俺が声をかけなければ、キャスティは一人でここに来ただろうな」
「それは……困りものですね。分かりました、後で話を聞いておきます」
 頼んだ、と伝えるようにヒカリは軽くテメノスに二の腕をぶつけてきた。それからさらりと言い足す。
「彼女ほどではないが、俺もそなたの安否が気にかかっていた。大切な友だからな。助けが間に合ってよかった」
「フフ……ありがとうございます」
 テメノスは微笑した。ここまでストレートに言われると照れる暇すらない。やはりヒカリは王の器だった。
 剣士が離れていってから改めて今日の行動について反省すべき点を洗い直したが、ありすぎて逆に特定できなかった。後ほどキャスティ本人に直接質すべきだろう。
 水音が強くなってきた。出口付近の水路には段差があって、小さな滝のようになっているのだ。
 テメノスは仲間たちに一旦立ち止まるよう促した。学者の白手袋をはめ直し、断罪の杖を握る。そして三人を順繰りに見つめた。
「私たちは待ち構える相手に真正面から飛び込むことになります。準備はよろしいですか」
「問題ない」「ああ」「任せてちょうだい」
 仲間たちはうなずき、それぞれ凛々しい顔で武器を構える。頼もしいものだ、とテメノスは目元を和らげた。
「前衛はお願いしますよ」
 歩みを再開する。程なく、ランタンの明かりにフードの男たちが浮かび上がった。相手は五人――つまり地下礼拝堂で倒した四人と、入口の見張りだけだ。幸い数の上ではそれほど不利でない。
 こちらの姿を認めた相手がすばやく戦闘態勢をとる。テメノスは息を吸い、胸の前で指を組んで碩学王アレファンに祈りを捧げた。
「さて、行きましょうか……雷鳴よ!」
 彼が呼んだ閃光とともに戦いがはじまった。

 テメノスは大聖堂前の広場にある階段に腰掛け、風に揺れる聖火をぼうっと眺めていた。
 昼間は巡礼者たちでにぎわう場所だが、さすがにこんな夜明け前の時間帯には誰もいない。青から紫へと変わりつつある空の下、早起きの小鳥のさえずりだけが広場に響き、あたりには透き通った空気が満ちていた。
 石段の冷気がコート越しに体に伝わる。雑に荷物に突っ込んだ神官服はしわにならないうちに干す必要があるだろう。そう思いつつも、今は疲れて何をする気も起きなかった。
 背後から硬い足音が近づいてくる。
「テメノス審問官」
 声をかけられた。立ち上がるのも億劫なので、首だけ回して答える。
「おや、呼び捨てにはしないんですね」
 オルトはぎくりと肩を跳ねさせた。地下でテメノスが水に落ちる直前の出来事を思い出したのだろう。
「あれは……とっさに出てしまったんだ。すまない」
「いえいえ、君が私のことをどう思っているかよく分かりましたから」
 すました態度で言ってやれば、オルトはバツの悪そうな顔をして隣に座り込む。
「体はもう大丈夫なのか?」
「平気だと言ったでしょう。聖火のおかげであたたまって、眠くなってきましたよ」
 わざとらしく口を隠してあくびすると、オルトは疑り深いまなざしを向けてきた。
 ――地下通路で無事に信者たちを捕縛した後、テメノスはその場で「審問」を試した。しかしそれは不発に終わった。なんとここに来て相手の精神防護に引っかかったのである。
 月影教の誰かが他人の精神に干渉する術を使えるのでは、という憶測が急に現実味を帯びてきた。しかもテメノスは審問を阻まれたことで心の領域にダメージを受け、一時的に意識を飛ばす羽目になった。
 気絶していたのはほんの少しの間だけで、彼はすぐに我を取り戻した。心配する仲間たちには「体が冷えたからだ」と言っておいた。そのため地下を脱出した後、拘束した信者を預けるため神官の宿舎に向かった他の三人と別れ、一人で聖火の近くに座っていたわけである。
 オルトはテメノスの乾いた服をひとしきり眺めた後、再び口を開く。
「宿舎で寝ていた朝番の聖堂騎士を一人起こして、月影教信者を引き渡した。協力に感謝する」
「あれはほとんどヒカリのお手柄でしょう」
 審問が失敗したとはいえ、襲ってきた信者を返り討ちにし、さらに一人も逃さず捕縛できたのは最上の結果だろう。戦闘時、前のダメージが蓄積していたテメノスやオルトは動きが鈍かった一方で、そもそも深夜であり旅の疲れもあったはずなのに、ヒカリはキャスティともども機敏に動いていた。
 オルトは自分の手のひらを見つめ、ため息をつく。
「ああ、本当に強かったな。あれぞ雷剣将に愛された剣というか……彼は一体どういう人なんだ? ク国の出身らしいが」
「今に大陸中に知られる有名人になりますよ」
 テメノスの返事に、オルトは首をひねる。彼も新ク国王即位の報くらいは知っているだろうが、まさかここに国王本人がいるとは思ってもいないのだろう。生まれつきの貴人におんぶされたことを知った日にはひっくり返りそうだ。
「それで、ヒカリたちはどうしたんですか?」
「すぐに来るはずだ。あなたを長いこと一人にしておくわけにもいかないから、私が先に知らせに来た」
「ありがたい配慮ですね」
 これは皮肉ではなく本心である。オルトは眠そうに目を瞬いた。
「今回は面倒ごとに巻き込んでしまって悪かった。まさか私の行動が監視されていたとは……。だが、あなたの宣言どおり一晩で謎が解けたな」
「まだ解決していませんよ。カルディナが敵視していた『月影教の先導者』とやらの正体が不明のままですから」
 聖火を見つめながら喋ると、オルトがじっとこちらを見つめる気配がする。なんだろう、とテメノスは視線を返した。騎士のまなざしは存外に真剣だった。
「テメノス審問官は……すべての謎を解いた後、どうするつもりだ?」
「すべての謎ですか。それは相当時間がかかりそうですね」
 疲労のせいか、つい弱気な発言になってしまった。だが、歴史書に出てくる魔術師ダーケストまで絡んでいると思しき事件である。テメノスが一人で速やかに解けるレベルはとうに超えている、と感じていた。
 オルトは眉根を寄せる。
「そうではなくて……あなたは教会をやめるつもりなんじゃないか」
 虚をつかれたテメノスは瞬きして黙り込んだ。オルトは真面目な調子で続ける。
「謎を解いた後も、あなたが信仰を託すに足るものが、この教会に残っているのか?」
 ――幼い頃、いずれ教皇となる人に拾われた時から、テメノスが神官になる道は決まっていた。生きていくにはそうするしかなかった。だが彼は天上の神よりも、むしろまわりの人々を信じてきた。敬虔な彼らを見て、自分も似たようなふるまいをしてきただけだ。だが、彼らはもはや皆この世を去った。
 この若者にそれを心配されるとは。テメノスは嘆息する。
「……少なくとも、異端審問官という役職は近い将来なくなるでしょう。存在しない方がいいんですよ」
 もし未来の審問官が「何を異端とするか」の判断を間違えたら、悲惨な末路が待っている。歯向かうものすべてを罰する、カルディナ率いる聖堂騎士と大差ない役割になるのは目に見えていた。
 だから、テメノスは教皇が託そうとしていたものを解き明かせば、この役目を終わりにするつもりだった。
 オルトは肩をすくめる。
「あなたが紙芝居を読み聞かせるだけの暮らしで満足できるとは思わないが……」
 麓の教会で話を聞いたのだろうか。「意外と評判がいいんですよ」と言えば、オルトはぐっとこぶしを握り、身を乗り出した。
「テメノス審問官、あなたは教会に居続けてほしい。その頭脳をどうか人々のために使ってくれないか」
 まっすぐな言葉だった。まだ朝日は上っていないのにテメノスはまぶしさを感じた。オルトの瞳に宿るそれは、テメノスがかつて教皇やロイ、クリックたちに見出してきたものだ。
 自分は持ち合わせていないもの――必要な時に相手の心に踏み込める力である。
 テメノスはすっと目をそらした。台の上で燃える聖火は、明け方の空と溶け合って少し頼りなく揺れている。
 相手が焦れて口を開きたくなる頃合いを見計らって、テメノスは返事をした。
「……君が偉くなって、堂々と私に命令できる立場になったら考えます」
 オルトは脱力したようにがくりと肩を落とす。
「そう言われても、教会と聖堂機関は違う組織だが……?」
「だからトップになれと言っているんです。それなら確実に私より上でしょう」
「……そうか。分かった」
 オルトは勢いよく立ち上がった。そして、眉を吊り上げてテメノスに指を突きつける。
「その代わり、私が偉くなったら絶対にお前を呼び捨てにしてやるからな!?」
 覚えてろよ、と悪役のような捨て台詞を残し、オルトは肩を怒らせて大聖堂に戻っていった。
 座ったまま彼を見送ったテメノスはくすりと笑う。先ほどの「一人にしておくわけにはいかない」という発言と完全に矛盾した行動ではないか。クリックとはまた別のにぎやかさだ。ああいう人物がいるなら、聖堂機関も捨てたものではないだろう。
 やれやれという気分でテメノスが腰を上げると、ちょうどオルトと入れ違いに仲間の二人、ヒカリとキャスティが広場にやってきた。神官の宿舎からの帰りだろう。
 テメノスに目で挨拶したヒカリが、怪訝そうに後ろを振り返った。
「……オルト殿と何かあったのか? ずいぶん気が立っている様子だったぞ」
「寝不足なんでしょう」
 しれっと答えてあくびをする。今度は自然に出たものだ。キャスティが眉を下げた。
「テメノス、体の調子はどう?」
「問題ありません」即答してから、これでは足りないだろうと思って付け加える。「先ほどは情けない場面を見せてしまいましたね。まさか審問に失敗すると思わなかったので驚きましたよ。信者にかけられた術は、神官長にでも分析してもらいましょう」
「そう……」
 なるべく元気に答えたつもりが、キャスティの顔は晴れなかった。このままだと際限なく心配されそうだったので、「私たちもそろそろ休まないといけませんね」と話題をずらす。
 今度はヒカリがかぶりを振った。
「俺は他の聖火騎士が起き出すまで、信者たちの見張りを手伝おうと思う。オルト殿と朝晩の騎士だけでは、何かあった時に対処できんだろう。二人は先に休むといい」
「でも……」
 すでに話を聞いていたであろうキャスティが食い下がった。だが、剣士は頑として譲らなかった。
「俺から申し出たんだ。ただ、半日でいいので出発をずらしてもらえるとありがたい」
 彼女は戸惑いを浮かべてテメノスを見た。神官がうなずいてやると、心を決めたようだ。
「もちろんよ。……気をつけてね、ヒカリ君」
「すみません、頼みます」
「ああ」
 ヒカリは軽く手を振り上げ、長い黒髪をなびかせて去っていった。夜を徹して戦ったのに微塵も疲れを見せないのは、戦慣れというものだろうか。
 少し眠たげな顔をしたキャスティは、テメノスに向き直る。
「私は宿に戻るわ。みんなが起きたら今日のことを説明しないと」
「麓まで送りますよ。村の教会に仮眠室があるので、私はそこで寝ます」
 そう提案すれば、キャスティは「えっ」と声を上げる。
「聖火のロウソクがあるから魔物は平気よ」
 確かに村と大聖堂をつなぐ巡礼路には魔物よけの火が灯されていた。しかしテメノスは小声で忠言する。
「悪人まで追い払えるわけではないでしょう。まだ月影教の信者がうろついている可能性があります」
 キャスティははっと顔を引き締めた。
「そうね……お願いするわ」
 二人は広場を出て、整備された山道を下った。疲労のせいもあっていつもよりのんびりとした足取りだ。まだ朝日が上らないので、テメノスはランタンに火を灯した。
 薄闇の中、キャスティの横顔はどことなく心細そうに見えた。地下水道でヒカリに言われたことを思い出し、テメノスは意を決して声をかける。
「あの、キャスティ。日程に余裕がなければストームヘイルは後回しで構いませんよ」
「え?」
 彼女はびっくりしたように顔を上げた。
 かの北の地へは、クリックの墓参りのために寄り道をすると昨日の時点で約束していたのだ。しかし。
「墓参りよりも戴冠式が優先です。ここまで来て私があなたの目的を手伝わない選択肢はありません。今回の事件はオルト君が調査を進めてくれるでしょう」
 ティンバーレインへ行ってしまえば、テメノスが謎解きに専念できないのでは――とキャスティは考えたのだろう。だからテメノスは先回りしてそう告げた。
 彼女は小さくほほえむ。
「それは……ありがとう。日程については、休んだ後でみんなと話し合いましょう。
 ……私、そんなに不安そうに見えた?」
 テメノスは表情を変えずに答える。
「ええ。もしや、私に何か言いたいことがあるのでは」
 巡礼路の途中にある洞窟に差しかかる。テメノスは下り階段をひとつずつ降りながら、キャスティの言葉を待った。やがて、彼女は洞窟の壁で揺れる聖火のロウソクを視界に入れて唇を開いた。
「ちょうど、ヒカリ君とこの山を登っている時……テメノスが危険な目に遭ってるのかもしれない、私は何か大事なことを見落としたんじゃないかって、ずっと考えていたわ」
 ぽつりと告げられた言葉に、テメノスは素直に謝った。
「いささか軽率な行動でした。反省しています」
 証拠を確保するためとはいえ、明らかに先走ったことをした。水に落ちたのも、オルトの命を危ういところまで追い詰めてしまったのも、間違いなく自分のミスだ。
 不意にキャスティは足を止め、真正面からこちらを見た。その両目には決意の火が燃えている。
「あのね、危ない場所に行く前には、私やみんなに声をかけてほしいの。ナ・ナシの里の遺跡の時みたいに」
「遺跡の……?」
 少し考えて、テメノスは彼女の言わんとすることに思い当たった。
 ――カルディナを追って訪れたトト・ハハ島の遺跡の奥で、彼らはカルディナに斬られたオルトたち聖堂騎士を見つけた。騎士の傷は深く、予断を許さない状況だった。
 キャスティはすぐオルトに駆け寄って手当てを施した。騎士は治療を受けながら、切れ切れに状況を説明した。そして言ったのだ、「自分たちのことはいいからカルディナを止めてくれ」と。
 彼女はその台詞が聞こえなかったかのように手を動かし続けた。だが、テメノスがそれに待ったをかけた。
「キャスティ、ここは彼の言う通り先を急ぐべきです」
 彼女はびくりと肩を震わせ、薬瓶を持った手を止めた。手当てされる側のオルトが細い声で促す。
「そうしてくれるか……キャスティ殿」
 薬師はテメノスに背を向けて怪我人の前にしゃがみ込んでおり、その表情は分からない。だが、彼女は明らかに葛藤していた。
 同行するソローネとオーシュットが揃って沈黙している。キャスティの心理が手に取るように分かるから、余計な口出しを避けたのだ。
 やがて大きく息を吐いたキャスティはオルトの手に治療薬を握らせ、こちらを振り返った。その双眸にはテメノスが危惧していた悲しみの色はなく、ただ強い意志がにじんでいた。
「そうね。この先にカルディナがいるなら、戦力は一人でも多い方がいいものね」
「ええ、どうか……私に手を貸してください」
 テメノスはそう言って胸に手のひらを当てた。
 このままオルトを放置して万が一のことがあっても、見捨てる判断をしたのはテメノスだと断言できるように――キャスティが苦しい思いをしないように、あえてはっきりと告げた。
「……も、もちろんよ」
 すると、彼女は妙な間を置いてうなずいた。緊迫した状況にそぐわない、あっけにとられた様子だった。何故突然そんな反応をしたのか、当時のテメノスには皆目分からなかったが、問いただす余裕もないままオルトを残してその場を離れた。
 ――二人はフレイムチャーチ巡礼路の洞窟を抜けた。キャスティは明け方の空を見晴かして、薄く笑みを浮かべる。
「あの時、あなたがはっきり『手を貸して』って言ってくれたのが……嬉しかったのよ」
 そういえば、旅の中でキャスティはことあるごとに「いつでも手を貸すわ」と申し出てくれた。テメノスはそれに感謝しつつも、救援がほしいと言葉にして伝えたことはなかった。
 つまり、あの時の自分は彼女に助けを求め、そして受け入れられたのか。完全に無意識だった。自覚した途端、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
 テメノスは内心を誤魔化そうと口を尖らせる。
「ですが、あなたやヒカリは私が何も言わなくても、先回りして助けに来てしまうようですね」
「ふふ、そうね。でもああやって助けを求めてくれるとやる気が全然違うのよ」
 そこまで言われるともう反論する気にもならない。今さら遺跡での発言は覆らないし、むきになって否定するのも大人げないだろう。テメノスはあっさりと白旗を上げた。
「……今後は善処しましょう」
「ありがとう、テメノス」
 キャスティは溜め込んだ思いを打ち明けてすっきりしたのか、ぱっと晴れやかな笑みを見せた。
 その時、山の端から朝日の最初の一筋が差した。巡礼路に置かれたロウソクの火が弱くなり、反対にキャスティの顔は明るくなる。
「きれい……」
 あたりを染め上げる金色の光に目を細め、「本当に」とテメノスも同意した。
 だが、肩を並べて同じ景色を見ていても、それぞれ違うことを考えるのが人間だ。たとえ唯一の同胞だろうと何もかも腹を割って話せるわけではない――ヴァドスとカルディナはきっとそういう関係だった。
 それでもテメノスには、助けを求めたら当たり前のように応じてくれる人がいる。彼が多くを失っても確かに残ったものがそこにあった。
 だから無理矢理に暴くなんて論外で、言葉で気持ちを伝え合う必要があるのだ。オルトもヒカリもキャスティも、皆テメノスよりよほど素直に心境を語り聞かせてくれた。目に見える世界が朝日に照らされても、テメノスはその心だけは暴きたくなかった。

 

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