情とお茶は濃いごいと

 戸外におけるお茶の準備はすっかりキャスティの得意分野になった。
 日暮れ前にリーフランドの森を探索して見つけた薪を野営地の中央にある砂地の上に置き、燃料となる枯れ草を追加する。それから彼女は後ろに控えていた白い帽子の商人に声をかけた。
「パルテティオ、お願いね」
「任せとけって。火花!」
 威勢のいい青年が手袋を外してぱちんと指を鳴らすと、薪に見事な火種が宿った。キャスティはお礼を言ってから、今度はヒカリに汲んできてもらった近くの小川の水を、バケツからポットに移し替える。焚き火の上には予め木の枝でやぐらを組んでおり、そこにポットの取っ手をかけてぶら下げた。大きくなった火で底を炙りながらしばらく待ち、注ぎ口から透明な蒸気が出てきたら頃合いだ。彼女は手袋をはめてポットを取り上げ、濡らしたふきんの上に置いて冷ました。
 蓋を開けて、ぐらぐらと煮立ったお湯に調合済みの茶葉を放り込む。キャスティは湯の中で葉がふわりと開くのを認めてから、仲間たちに声をかけた。
「みんな、自分のコップを持ってきてちょうだい」
「はいはい、わたしが一番乗り!」
 飛んできたオーシュットが、木を削って作った器を差し出す。期待を膨らませてしっぽを揺らす彼女に対し、キャスティはほほえみながらポットのお茶を注いだ。
「どうぞ。よく冷まして飲むのよ」
「へへ、ありがとうキャスティ」
 オーシュットはさっそく特製のハーブティーに口をつけると「あちち」と舌を出し、足元に付き添う相棒のアカラに何か小言をもらいながら去っていった。
 今度は踊子と盗賊が一緒にやってくる。出されたコップに順番にお茶を淹れれば、アグネアが感に堪えない様子でつぶやいた。
「キャスティさんのお茶を飲むのも、これが最後になるのかあ……」
「アグネア、そういうこと言わないの」ソローネが口を尖らせる。
「だ、だってえ……」
 アグネアは早くも目をうるませている。今をときめくスターの顔が台無しだ。キャスティはあらあら、と苦笑した。
 彼女たちは各々の旅の目的を達成し、さらには長い夜を越えて明日を取り戻した。もう八人で旅を続ける理由はどこにもない。皆はそれぞれの道を歩むため、リーフランドの見晴らしのいい丘でパーティを解散することに決めたのだ。
 そんな中、キャスティは別れの挨拶も兼ねて仲間にお茶を振る舞うことにした。荒れがちな旅の生活における体調管理として、彼女はこれまで何度となく皆にハーブティーを提供していた。それがすっかり仲間たちの習慣になったようだった。
 しゅんとするアグネアの肩に手を置き、キャスティは柔らかく告げた。
「そうよ、最後じゃないわ。あなたの公演にこのお茶を差し入れに行くから」
 アグネアはぱっと花ほころぶような笑顔になる。
「ありがとう、キャスティさん……! あたしも一層張り切って踊るべ!」
「うふふ、頼もしいわ」
「ほらアグネア、後がつかえてるよ」
 ソローネは踊子の背中を肘でつつくと、コップを持った手をキャスティに向かって持ち上げ、焚き火から離れていった。
 次にやってきたオズバルドはぼそりと「感謝する」と言ってコップを受け取り、メガネの奥の目を細めた。パルテティオやヒカリに対しては、キャスティの方から準備を手伝ってくれたお礼を伝えてお茶を注いだ。
 いつしかポットはずいぶん軽くなっていた。最後に神官の白い上着が見えたので、キャスティは「ちょっと待って」と制する。
「おや、どうかしましたか」
 瞬きするテメノスの前で、キャスティは減った分の水をポットに足して再度火にかける。ついでに湯の中には新たな葉を入れた。
 仲間たちはすっかりリラックスした様子で、暮れなずむ野営地のそこここに散っていた。その穏やかな談笑を聞きながら、二人で黙って湯が沸く様子を見守る。程なくふんわりと鼻腔をくすぐる香りが漂ってきたので、ポットを火から下ろした。
 テメノスのコップに淹れたお茶は、他のものより色が濃い。
「あなたはこっちね」
 お茶を受け取ったテメノスは不思議そうな顔で湯気に鼻を近づける。
「何か違うのですか?」
「ええ。あなたは確かこれが好きだったから」
 お茶に息を吹きかけてから口に含んだ彼は、しばらく思案した末にほおを緩めた。
「これはナ・ナシの里でいただいたものですね」
「そうそう。覚えていてくれたのね」
 キャスティは自分のコップにも同じものを淹れた。焚き火の近くに手頃な倒木があったのでそこに座ると、テメノスも隣に腰を下ろす。
 小川のせせらぎが聞こえる野営地で、仲間たちは思い思いに別れ前の時間を過ごしていた。ヒカリが景気づけに横笛を吹こうかと提案すれば、アグネアは「曲に合わせて踊りたい」と元気に手を挙げる。お茶では物足りなかったのか酒瓶を取り出したパルテティオとソローネ、お腹があたたまってうとうとしているオーシュットとアカラ、そのそばで彼女らを守るように座りながら空を見上げるオズバルドといった面々が、炎に照らされていた。
 キャスティはほほえましい気分でお茶の湯気越しに仲間たちを眺め、横で静かにコップを持ち上げるテメノスに尋ねる。
「前にも聞いたけど、この後あなたは大聖堂に帰るのよね?」
「ええ。山ほど後始末がありそうですから」
 テメノスはうんざりした口調で答えた。部外者のキャスティでも複数思いつくくらい、今の聖火教会は種々雑多な問題を抱えている。彼女は声をひそめた。
「……あなたは教会で安心してやっていけそうなの?」
 彼と別れるにあたって、それが気がかりだった。あの延々と続いた夜の中でフレイムチャーチを訪れた時、アルカネットという女に襲われたことは記憶に新しい。テメノスに危害を加えようとする者が、長い間聖火教会に潜伏していたのだ。所属する組織への不信感が湧いても仕方のない状況だった。
 テメノスは瞳を不透明に沈ませ、コップの側面を手でさする。
「少なくとも、今回の旅のおかげで聖火を信仰する意味はこの上なくはっきりと理解できました。それに、私は疑うのが仕事ですから……今後もやることは変わりませんよ」
「そう……」
 それは、周囲を疑いながらも教会に居続けるということなのか。だが、彼は邪神討伐直後に訪れたカナルブラインにおいて「教会にも信用できる人はいる」と言っていた。そういう存在がテメノスの助けになってくれることを願うしかない。
「キャスティは、薬師団の新しい仲間を探すのですよね」
 今度はテメノスが気遣わしげに問いかけた。キャスティは大きくうなずく。薬師団を再結成することは、彼女の胸に燃える使命を果たすために――一人でも多くの人を救うためには必須だった。
「しばらくは一人のままかもしれないけれど、いつかは必ずね。とりあえずは世界中を回ることになると思うわ」
 揺らめく焚き火に、かつての拠点ヒールリークスを思い浮かべた。記憶を失う前のキャスティは遠征という形で旅をしていたが、これからは拠点は持たず、町から町へと渡り歩く生活になるだろう。つまり、今の仲間とともに繰り返してきたことの延長だ。人数は減るけれど問題はない。
 そうですかと相づちを打ったテメノスは、考え込む顔で手元に視線を落とした。やがて意を決したようにキャスティに向き直る。
「……あの、キャスティ。この茶葉を私に分けていただけませんか。相応の代金は支払いますので」
「え? それは構わないけど……」
 改まって言うことだろうか、とキャスティは目を丸くする。テメノスがやや早口で付け加えた。
「舌がすっかりこの味に慣れてしまったようで……飲むと考えごとに集中できるんです」
「まあ、そうなの」
 そこまで気に入られていたとは思わなかった。テメノスに渡したお茶には気持ちを落ち着かせる香草を入れたので、それが効果を発揮したのだろう。キャスティはほおをほころばせ、さっそく鞄を開く。
「材料はまだあるから、今から調合して多めに渡すわね。もしよければ、茶葉がなくなった頃に配達でもしましょうか?」
「……いいんですか?」
 テメノスが目を見開き、身を乗り出した。深い色の瞳に炎があたたかく映り込んでいる。最後に付け加えたのはキャスティの余計な申し出だったが、彼は歓迎している様子だった。
「もちろんよ。在庫がなくなりそうになったらコニングクリークの薬師ギルド宛に手紙を出してくれる? 定期的に郵便が届いていないか確認しに行くつもりだから、その後で大聖堂に寄るようにするわ」
「助かります、キャスティ」
 テメノスは穏やかにほほえんだ。つられてキャスティも笑顔になり、同時にあることを思いつく。
(そうだ、これなら自然にテメノスの経過観察ができるわね)
 彼が大聖堂で元気にやっているのか、体調を崩していないかを確認する口実ができた。キャスティが救うべき対象には、当然彼や仲間たちも入っている。
 それとは別に、テメノスがこの提案を受け入れてくれたことで、目の前が開けるような感覚があった。長く旅をしてきた仲間との別れは決して悲しいだけではない、という実感が湧き上がったのだ。
 彼らと交わす「次」の約束は、一人で大陸を歩むキャスティの道しるべとなるだろう。不確かで曖昧な口約束こそ、一行が掴み取った明日の意味を示しているようだった。

 クレストランドの涼しい風が、山登りで火照ったほおを冷やす。キャスティは息を吐き、頭に落ちた木の葉を払いながら街道を歩いていた。
(このあたりは変わらないわね……)
 フレイムチャーチに続く階段の前で一旦立ち止まり、息を整える。
 リーフランドの野営地で仲間たちと別れ、さらにニューデルスタの大劇場でアグネアの晴れ舞台を見物してから幾星霜。キャスティは今でも定期的に大聖堂へ茶葉を届けていた。
 あの時の約束どおり、コニングクリークの薬師ギルドには時折テメノスからの手紙が届く。そこには短い近況と「茶葉を頼みます」という依頼が丁寧な筆致で綴られており、キャスティは返事を書いてからフレイムチャーチに向かうようにしていた。
 ただし、今回に限って彼女は手紙の有無を確認せず、ここまで足を運んだ。
(テメノス、いるかしら……?)
 水筒を開けて喉を潤し、ゆっくりと階段を上りはじめる。
 実は直近でコニングクリークに寄った時、いつもなら届いているはずのテメノスの手紙がなかった。毎回渡す茶葉の量は一定だし、テメノスは毎日きっちり使っているようで、配達の間隔はこれまでほぼ同じだった。それなのに一体どういうことだろう。キャスティはつい「テメノスに何かあったのでは」と考えてしまい、近くを通りがかったこともあって、気がついたら大聖堂へと足を延ばしていたのだ。
 もちろん、彼が用事で不在にしている可能性はある。たまに仕事で長期間大聖堂を離れている、と本人からも聞いたことがあった。
 石段を上りながら、キャスティはそっと鞄に手を置く。中には調合済みの茶葉が眠っていた。ハーブの配合は、その時の気候や彼から聞いた体調に合わせて毎度微妙に変えている。せっかく用意してきたのだから、テメノスがいなかったら誰かに茶葉だけ託しておとなしく帰ろう。
 最上段に到達すると、落ち着いた暖色の木々に囲まれた村が目の前に広がった。以前と変わらぬ素朴な景色だ。ここからほど近いクロックバンクやニューデルスタの町は変化が目まぐるしいが、ひとつ山を越えるだけでずいぶん雰囲気が異なるものだ。
 キャスティは道行く人に軽く挨拶しながら――どうもテメノスの知り合いとして顔を覚えられたらしく、村人の愛想は良かった――ひとまず麓の教会に向かう。彼が山の上の大聖堂にいるか、麓にいるかは五分五分だ。行き違いを防止するため、キャスティは必ず入口に近い方の教会から訪ねることにしていた。
 大聖堂より小規模だが立派なステンドグラスを見上げ、一呼吸置いてから建物の前に立った瞬間、扉が内側から元気よく開かれた。キャスティは驚いて固まってしまう。
「あ、ごめんなさいっ」
 謝罪の声はずいぶん低い位置から聞こえた。数人の子どもたちが扉の向こうに待機していて、次々とキャスティに声をかけながら外に飛び出していく。
(もしかして……)
 彼女はかすかに期待しながら教会の中を覗いた。
 広い礼拝堂にいくつも置かれた子ども用の椅子を、神官たちが片付けているところだった。キャスティはその中に顔見知りを発見した。
「お忙しいところすみません。テメノス審問官を訪ねてきたのですが」
 声をかけた相手はピアノが得意な神官だった。以前、パルテティオが雇ってウィンターブルームまで連れて行ったこともある。キャスティに気づいた彼女は顔に喜色を浮かべた。
「ああ、お久しぶりです! テメノスさんなら、つい先ほどまで子どもたちに紙芝居をしていましたよ。その後大聖堂に呼び出されて巡礼路を登っていかれましたが」
「呼び出し……ですか」
「どういう用件かまでは、私たちも聞いていませんね」
 キャスティは肩を落とす。運悪くすれ違ってしまったらしい。疲労を感じて村の入口手前で休憩をとったのが仇となったか。
 それはそうと、やはりテメノスはここで紙芝居をしていたのだ。ぜひ一度くらいは子どもたちと一緒に見物してみたかった。
 片付けられていく礼拝堂を眺めていると、神官が笑みをこぼす。
「近頃、テメノスさんは以前よりも熱心に紙芝居をされているんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。お話の最初から最後まで臨場感たっぷりです」
 また聖火神を題材とした話だろうか。以前の旅では神の存在を身近に感じるような出来事がいくつもあったため、紙芝居にも気合が入ったのかもしれない。
 一方で、キャスティはティンバーレインにおいて彼と交わした会話を覚えていた。「あなたの紙芝居が子どもに思わぬ影響を与えているかもしれない」と彼女が言うと、テメノスは「次からはもう少し丁寧に読みましょう」と答えた。彼の変化にはあの言葉が関わっている可能性も多少はある。
 テメノスの用事が長引くようなら日を改めるべきかと思いつつ、神官に「ありがとうございます」と言ってきびすを返す。
 キャスティが体を向けた途端に教会の扉が開いた。外から甲冑を鳴らす物々しい音がやってくる。
「キャスティ殿か。しばらくぶりだな」
 声をかけてきたのは、黒い髪の毛を無造作に肩に垂らした騎士だった。キャスティは軽くスカートを持ち上げた。
「あなたは……オルトさん、よね。聖堂機関副長の」
 騎士はうなずいた。彼とはアグネアの晴れ舞台の日に会って以来の再会だ。以前はキャスティたちに対してかなり腰が低かったが、「遠慮はいらない」と伝えたこともあってか、副長らしい態度で接するようになった。
 彼はあごを引いて、
「オルトでいい。どうしたんだ、こんなところで。テメノスに何か用か?」
「ええ。あなたも?」
「そんなところだ。あいつに仕事を持ってきた」
 近頃のオルトはテメノスに気安く接しているらしい。思い返せばニューデルスタで再会したときからそうだった。あの時の彼は相当テメノスに振り回されていたので、キャスティはほほえましい気分とともに「誰か」のことを懐かしく思い返したのだった。
 彼女は片付けが終わって閑散とした礼拝堂を見回す。
「テメノスはこの教会を出て、大聖堂に行ったそうよ」
「では、そちらに向かうか。キャスティ殿もどうだ」
「ご一緒するわ」
 二人は連れ立って教会を出て、村の中を横切り巡礼路へ赴く。かつてキャスティが村の長老を手伝って聖火のロウソクを灯した道だ。今も小さな火はあたたかく揺れ、魔物を退けている。頂上の大聖堂まで、またもや軽い登山のはじまりだ。
 道すがら、キャスティは青年に尋ねた。
「テメノスに持ってきたお仕事ってどういうもの?」
「月影教関連の調べ物だ。それで近頃ワイルドランドまで行くことが多くてな」
 彼は内容を濁したが、だいたい予想はつく。月影教ということは、例の先導者の足跡を追っているのだろう。もしや、テメノスの遠出とはそのことかもしれない。
「副長さんが自ら遠征するのね」
「今の聖堂機関には人材がいなくてな……。しかし、これ以上の捜査は面が割れている私たちでは厳しい。どうにかして月影教の内部に潜り込みたいが……」
 オルトは難しい顔でこめかみを押さえる。潜入捜査に向いた人材といえば、ぱっと仲間の盗賊が思い浮かんだ。
「多分、テメノスには協力者の心あたりがあると思うわ。そういうことにぴったりの助っ人がいるの」
 解散してからは一人であちこちさすらっているソローネだが、あの探偵なら居場所を見つけられるだろう。
「だといいのだがな……」
 オルトはあまり気乗りしないようだった。よほど普段からテメノスに煙に巻かれているのか。キャスティは苦笑した。
 坂を折り返すと、短い洞窟に差し掛かる。そこにもロウソクがあってほのかに足元を照らしていたが、キャスティは念のためランタンを取り出した。
 オルトがぼそりとつぶやいた。
「……キャスティ殿から見て、近頃のテメノスはどうだ?」
 推し量るような口調だった。この質問の真意は「薬師としてどう見ているか」だろう。彼も、テメノスに対してキャスティと同種の懸念を抱いているのかもしれない。
 一番最近会った時の彼の様子を思い出し、キャスティは前を見たまま答えた。
「そうね……心の整理をするには、まだ時間が必要だと思うわ。もちろん、あなたにもね」
 オルトだって同僚や上司を軒並み失っているのだ。落ち葉を踏みながら視線を横に流すと、彼は眉を上げた。
「……なるほど。テメノスがよくあなたのことを話していた理由が分かった気がするな」
「私のことを?」
「定期的に会っているんだろう。あいつにとっていい気晴らしになっているようだし、私も助かっている」
 軽く頭を下げられ、キャスティは「そんなことないわよ」と慌てて手を振る。ただ届け物のついでにお茶を飲んで、世間話をするだけだ。
 二人がお茶を飲む場所はその時によって様々だった。テメノスがわざわざ大聖堂の部屋を用意してくれることもあるし、聖火の灯る広場で風に吹かれながら飲むハーブティーもまた格別だった。
 話す内容はそれぞれの仕事よりも、共通の知り合い――すなわちかつての仲間たちに関することが多い。大聖堂にとどまるテメノスと移動を続けるキャスティとでは再会する顔ぶれが異なるので、情報を交換し合うのだ。
 キャスティは今のテメノスの仕事ぶりについて、くわしく聞かないようにしていた。本当に大事なこと――邪神やそれに与する者たちにまつわる真実など――があれば、あちらから言い出すだろう。未だ隠された謎を追いかけるテメノスは、幼馴染にはじまり親しい人々を立て続けに失った過去に、再度じっくりと向き合わなくてはならない。それが与える影響は計り知れず、もう時が解決するのを待つしかなかった。
 暗い洞窟にいるせいか重苦しいことを考えてしまった。その矢先に、洞窟の終点が見えた。傾き加減の日差しが出口から差し込んでいる。
「ところで、テメノスはどんな用事で呼び出されたのかしら?」
 ランタンをしまい、太陽光を浴びながら疑問を呈すると、オルトが首を振った。
「おそらく神官長殿が呼んだのだろう。あの人はテメノスに地位を譲りたいようだからな」
「え?」
 キャスティは目を丸くする。オルトはしかめっ面で説明した。
「神官長殿はずっと教皇の代理を務めているのだが、そろそろ本格的に地位を継いだらどうかと打診されても、『年齢も経験も足りていないから』と固辞しているそうでな……。だが、テメノスが神官長になれば自分が教皇の座を引き受けてもいい、とも言っているらしい。近頃そんな交渉が続いて困っている、とテメノス本人から聞いた」
「そう……なのね」
 寝耳に水だった。今まで何度も大聖堂を訪れたが、キャスティは一度も聞いたことのない話だった。
 今のところ、テメノスは異端審問官の地位におさまったままだ。しかし、教会としては聖火を復活させた功績もあるので早く彼を昇進させたいのだろう。テメノス本人がどう考えているかは分からないが。
 一見何も変わらないように見えて、この村やテメノス自身にも変化の兆しは訪れているのだ。
(それなら、私は……)
 大聖堂へ向かう最後の階段の前で、キャスティは立ち止まった。決意とともに鞄を開ける。
「オルトさん、これをテメノスに渡しておいてくれる?」
 騎士の手に押し付けたのは、紙袋に入れた茶葉だった。
「……これは?」
 オルトが眉を跳ね上げた。
「渡したら分かるから。私、呼ばれてもないのに来ちゃったし、テメノスも忙しそうだから今日は帰るわ」
 すると、オルトが大きくため息をつきながらキャスティに袋を返した。
「これを受け取ったら、私がテメノスに怒られてしまう。時間がかかるかもしれないがあいつを呼んでくる。麓で待っていてくれないか」
「そんなこと……いえ、分かったわ。ありがとう」
 キャスティは茶葉を鞄にしまい、結局聖火も大聖堂も目にしないまま、きびすを返した。
 突然の発言にオルトは驚いただろう。だが、キャスティは気づいてしまったのだ。
 ここを訪れるのはテメノスの経過観察のためと考えていたけれど、違った。本当は、キャスティにとってこの場所がひどく都合が良かったからだった。
 大聖堂に来れば必ずテメノスがあたたかく迎えてくれる、ゆっくり羽根を休めることができる、と無意識にあてにしていた。彼と会ううちにそんな気持ちが漏れ出して、いつしか相手の負担になっていたのではないか。それは薬師としてあってはならないことだ。いつまで経っても手紙が届かないのは、彼なりの意思表示だったのかもしれない――そう思ったら、衝動的に体が動いていた。
(……こういうことを考えるのは、あまり良くない傾向ね)
 キャスティは再び洞窟に入り、日陰でそっと額をおさえる。最近眠りが浅いことは自覚していた。蒸気機関の広がるブライトランドでは人々の生活にも大きな変化が訪れ、自然とキャスティの出番も頻発していた。それが一段落した時、ついフレイムチャーチに足を向けてしまったのだ。きっと自覚のないまま安らぎを求めていたのだろう。おまけに思考まで疲れに引きずられているのか、明らかに今の自分は冷静ではなかった。
 患者を第一に優先すべき薬師がこれではやっていられない。やはり麓の村で休んでから出直すべきだ。
 ランタンをつけるのも面倒になり、ロウソクの明かりを頼りに階段を下る。洞窟の奥を流れる滝の音を聞きながら一段ずつ足を下ろす途中、ふと視界の端に光が映った。
「あら?」
 右手側に脇道があった。この洞窟には大聖堂に続く道とは別の出口があるようだ。行きは手元に明かりがあったので気づかなかったらしい。
 眺めるうちに細い陽光が遮られたかと思うと、洞窟の闇にさっと銀の短髪が浮かび上がる。
「テメノス……!」
 大聖堂に向かったはずの仲間がそこにいた。キャスティが声を上げて反射的に階段を降りようとした時、足が段の上を滑った。
「あっ」
 足元が薄暗かったことに加えて、疲労で感覚が鈍っていたせいだと瞬時に判断する。空中で姿勢を立て直すことは難しかった。ならば受け身を取るしかない、と腕を出す。前のめりになって流れていく景色がいやにゆっくりに見えた。
 ランタンを持つテメノスが、こちらに気づいて驚愕に目を見張る。
「キャスティ!?」
 受け止めようとでも考えたのか、彼は着地地点に駆け込んで腕を広げた。
「だめ、避けて!」
 言いながらキャスティは体ごと彼にぶつかった。二人で地面に倒れ込む。
「うっ……」
 思ったよりも衝撃は弱かった。ぎゅっとつむった目を開けば、体の下からうめき声がした。
「ごっごめんなさい!」
 すぐに上から退く。テメノスは衣についた土を払って起き上がった。
 足元に置かれたランタンに照らされた彼は、見た目にはほとんど変化がなかった。髪が少し伸びたくらいか。彼は地面に座ったまま苦笑いしている。
「いえ、私が受け止められたら良かったのですが……そううまくいきませんね」
「私も勢いよく突っ込んじゃったから……。それよりもテメノス、怪我は? ああ擦りむいてるわ」
 彼に近づき、腕をとって袖をまくった。手のひらの側面から前腕にかけて、うっすら赤い血がにじんでいる。
「このくらいは平気ですよ。あなたこそ足は大丈夫ですか」
「あなたのおかげでなんともないわ。すぐ手当てするわね」
「やれやれ……よろしくお願いします」
 彼はランタンと荷物を持ち、すっくと立ち上がった。
 こちらに明るくて広い場所がありますから、という前置きで案内されたのは、先ほど彼がやってきた脇道だった。
 洞窟を抜けるとすぐに崖の先端があって、赤く色づいた山々が一望できた。一瞬絶景に目を奪われたキャスティはすぐにテメノスに向き直る。手当てのため、まず彼を近くにあった岩に座らせた。そして自分は彼の前に陣取って、鞄から取り出した道具で手早く怪我を消毒する。
 手当する方もされる方も慣れたものだった。テメノスはおとなしく処置を受けながら口を開く。
「ところで、キャスティはどうしてこちらに? 手紙は送っていないはずですが……」
「あ……やっぱりまだ茶葉はあるのね」
 若干気まずい気分で包帯を巻き終わった。テメノスは手を握って開き、調子を確かめながらうなずく。
「不本意なのですが、遠出が長引くと途中で茶葉を使い切ってしまって……結果的に飲む量が減るんですよ」
 茶葉も旅先では荷物になるので、十分な量を持ち運ぶことは難しいだろう。本職の薬師がずっと付き添っていたかつての旅とは事情が違う。
(つまり……私は余計な心配をしていたみたいね)
 テメノスにとってもう茶葉は不要なのでは、という予測はまったくの見当はずれだったと悟り、キャスティはほっとする。失礼な勘違いを口に出さなくてよかった。
「キャスティ、あなたも少し休んだらどうですか」
 テメノスが場所を譲るように腰を浮かしかけたので、少し詰めてもらって横に座ることにした。
 隣から静かに緑の視線が注がれた。「どうしてここに来たのか」という問いに対して、キャスティはまだ明確な答えを返していない。テメノスは仲間に対して無理やり暴くことは絶対にしないが、こういう時に話さざるを得ない雰囲気を作るのはうまかった。キャスティはうつむき、膝の上で両手を握った。
「その、近くを通りがかったから寄ってみたのよ。新しいお茶も調合したし……あ、これじゃ押し売りみたいね。迷惑だったかしら」
 つい本当の理由をごまかした上、予防線まで張ってしまった。するとテメノスはあっさり首を振った。
「そんなことはありませんよ。それで私を探していたんですか」
「ええ、オルトさんと一緒に。あの人は大聖堂に行ったけど……」
 それを聞いたテメノスは眉を微妙な角度に曲げる。
「彼はまた余計な仕事を押し付けに来たんですねえ」
「ふふ、仲が良さそうね」
「ご想像におまかせします」
 しれっと答えるテメノスに、キャスティはくすりと笑った。
 座ったままあたりを見回す。夕焼けに近づく空を赤とんぼが横切る、のどかな光景が広がっていた。本来の巡礼路から外れていて人けがないためか、いっそう落ち着く雰囲気だ。もしかすると、テメノスは一人になりたい時にここに来るのかもしれない。
 キャスティは首の向きを戻して問いかける。
「テメノスはどうして大聖堂じゃなくてここにいるの?」
「ああ、呼び出しについてはいつもの神官長の愚痴でした。適当にかわして逃げてきたんです」
 彼はさらりと答える。オルトの言っていたような地位に関する話は出さなかったので、キャスティも黙っておこうと決めた。
「ここでは考えごとと……スケッチをしていました」
 やけにかさばる荷物を持っていると思えば、それは大判の紙が綴じられた本――スケッチブックだった。白い地に柔らかい線で描かれた絵を見て、キャスティはあっと声を上げた。
「これ、もしかして前に言ってた私たちの旅の……紙芝居?」
 そうです、とテメノスは口の端をほころばせた。
 まだ仲間全員が旅の目的を達成するよりも前のことだ。酒場でアグネア、パルテティオを含めて「いつかこの旅路を紙芝居にするのはどうか」と四人で戯れに話したことがあった。彼はそれを覚えていたのだろう。確かにここは邪魔が入らず、一人で絵に没頭するにはいい空間だ。
 キャスティは紙面に目が吸い寄せられてから、はっとする。
「見せてくれるの?」
「まだ断片ですが、どうぞ」
 途中経過を表に出したくない人もいる、と思っての質問だったが、テメノスは抵抗がないらしく、鉛筆で描いたラフを差し出した。そこには見覚えのある場面がいくつも描かれていた。アグネアとその妹分ライラの二人舞台、砂漠で剣を抜くヒカリ、魔物を狩る勇ましいオーシュット――可愛らしい絵柄だが、それぞれの特徴がよく捉えられている。
 その中に指でコインを弾くコートの男を見つけ、キャスティは笑声を漏らした。
「あなたは『真実しか描けない』なんて言ってたけど、パルテティオそっくりよ」
 テメノスは眉根を寄せてうーんと腕組みする。
「自分でも意外なほど出来が良かったのですが、本人に見せたら『会社の宣伝材料に使う』と騒がれそうなんですよね」
「それもそうね……ロックさんあたりが提案しそう」
 笑いながら紙束をめくると、最後のページに目がとまった。
「これは……私?」
 夕日を背負ったキャスティ自身が真剣な表情でこちらを見ている。背景に描かれているのは海だろうか。どきりと心臓が跳ねた。
 間違いない、これは記憶を取り戻した直後に訪れたニューデルスタ港だ。単純な線で色もついていないのに、そう確信できた。今でもあの時の茜空ははっきりと思い出せる。
 テメノスはそっと目をそらす。
「すみません、印象的だったのでつい……。実際に紙芝居にするのは、ウィンターブルームあたりのエピソードになりそうですが」
「ううん、嬉しいわ。覚えていてくれてありがとう」
 実際に描かれているのはキャスティ一人だが、この絵にはエイル薬師団の皆がいるように思えた。テメノスがキャスティの背後にマレーヤたちの存在を感じ取ってくれたことが嬉しかった。
「どういたしまして」
 彼はほっとしたように表情を緩めた。
 紙束を彼に返したキャスティは、腰にさげた鞄を開く。
「ねえテメノス、喉が渇かない?」
 と言って金属製の水筒を取り出した。テメノスがその側面に彫られた文字に反応する。
「パルテ&ロックカンパニーの新製品ですね」
「便利だから使ってみろってオズバルドに勧められたのよ。底が二重になっているから汗もかかないし温度が長持ちするの。オズバルドがアイデアを出したみたいで、アグネアちゃんも巡業の時に使ってるんだって。中身はハーブティーよ」
 キャスティは一人旅の途中で再会した仲間たちの顔を思い出しながら答える。そして常に複数用意しているコップの一つをテメノスに渡した。彼はふっと柔らかい表情を浮かべて受け取った。
「ずいぶん用意がいいことで……いただきます」
 お茶に口をつけたテメノスは、目を見開いた。
「冷たい……それにいつもと味が違いますね? 水で味を出しているから、ということもありそうですが……」
 キャスティはにこりとする。
「ご明察。ケノモの村に行ったら、オーシュットに薬草をもらったのよ。それを足してみたの」
「素材は組み合わせることでより強い力を発揮する……それが調合の基本でしたか。仲間にもあなたの影響が行き届いているようですね」
「オーシュットはテメノスのことを心配してくれたのよ」
「ありがたいことです」
 テメノスはほほえんでまたお茶を飲んだ。
 キャスティはトト・ハハ島を訪れると必ずかの狩人に会いに行く。大聖堂に茶葉を届けているという話をしたら、オーシュットは次会った時に「これ、元気になるやつだからテメノスに渡してね」と言って薬草を分けてくれた。彼女なりに仲間を案じていたのだろう。
 しばし喉を潤しながら回想に浸っていると、テメノスはやや改まった様子で膝を揃える。
「前回私と会ってから、ずいぶんあちこち回ったのですね。忙しかったのではありませんか」
「えっ? ……ああ、確かにそうかもしれないわ」
 キャスティはきょとんとした。つい先ほどまで「テメノスは忙しいのでは」と気にかけていたのに、思い返せば自分の方こそせわしなく移動してばかりだった。
「薬師が暇になる日が来たらいいんだけどね。そうもいかないわ」笑って首を振る。
「だからといって、身を削ってまで仕事をするのは感心しませんね。先ほども珍しく転びそうになっていましたし。エイル薬師団がまたニューデルスタで流行病を治したという話も聞きましたよ」
 キャスティはぱちぱちと瞬きした。もしや新聞記事で知ったのだろうか。宣伝のため、彼女は活動の度に積極的に薬師団の名前を出すようにしていた。
 テメノスのまっすぐな心配が胸に刺さる。こういう時の彼は誰よりも神官らしい気遣いを発揮した。キャスティは笑顔を引っ込めて肩の力を抜いた。彼相手に取り繕っても仕方ない。
「そうね……少し疲れちゃった。それでフレイムチャーチに来たんだと思うわ」
 小さくつぶやけば、テメノスが目を見開いた。
「どういう意味ですか……?」
 なんだか声に聞き覚えのない色が宿っていた。キャスティは彼と、その背後に広がる雄大な自然に視線を向ける。
「きれいな景色のおかげか、ここに来ると安心するの。あなたにとってはいろいろあった場所だって分かってるんだけどね」
 キャスティは山々の向こうに遠くヒールリークスを透かし見る。もうあそこに彼女の帰りを待つ者はいない。だから、ここに来ればかつての仲間が待っていることを期待していた、という真の理由は胸に秘めた。
 横でテメノスがぼそりと言った。
「でしたら……一応目的は達成したようですね」
 キャスティが視線を戻すと、彼は不思議と満足げな表情であごをさすっていた。
「目的って?」
「私の仲間にはあなたのような根無し草が多いようですから、帰る場所を整備しておくのも悪くないでしょう?」
 キャスティは息を呑んだ。フレイムチャーチに来る度に安らぎを感じるのは、テメノスが自覚的にそういう環境を整えていたから――彼はそう告げているのだ。
 そわそわと落ち着かない気分になり、コップを手でもてあそぶ。
「それは……とても嬉しいわ。ソローネやオズバルドもここに来たら喜ぶと思う。でも、どうしてそこまでしてくれるの? だってここは、聖火教会はあなたにとって――」
 言葉が喉につかえた。これ以上は、今まで彼女が言及を避けていた領域に踏み込みかねない。
 テメノスは悠然とハーブティーを飲み干してから、キャスティと目を合わせる。澄み切った瞳に夕空が明るく反射していた。
「あなたの言う通り、ここは私にとって不都合な真実を暴いた場所です。しかし、組織の一部がどうであろうと、教会や村で暮らす人々は素朴に聖火に信頼を寄せていました。
 その様子を見ていたら、神官として紙芝居に励むこともそう悪くない……と思えたんです。だから、私は今、自分がいたい場所で一番やりたいことをできているんですよ」
 言い切った彼の顔は、暴徒を断罪する時の険しさなど微塵もなく、ただ凪いでいた。
(そうだったのね……)
 彼はかつて、まるで自分に言い聞かせるように「仕事だから」と主張して真実を追いかけていた。だが本当は、そんな言い訳をする必要などないくらい彼が自分の意志で謎に向き合い、神官として生きていることを、キャスティはよく知っていた。ここに来てテメノスは取り繕うことをやめ、そんな秘めたる思いを表に出すようになったらしい。
 その立場も志も根底から揺るがすような出来事がたくさんあったけれど、テメノスはこの場所に帰ってきたのだ。
 ふつふつと湧いてくる気持ちをどう表現すればいいか分からずに黙っていると、テメノスは肩をすくめた。
「まあ、オルト君は私をこき使いたいようですが」
「……ふふ、仕方ないわよ。あなたの才能は眠らせておくには惜しいもの」
 あの副長は、テメノスが紙芝居をするだけの生活はきっと許さないだろう。そうやって彼を外に引っ張っていく人材も必要だ。
(経過観察なんて、図々しかったわね)
 こちらの勝手な想像と違って、テメノスは他人を心配する余裕すら持っていた。少し恥ずかしくなり、キャスティは持ち上げたコップで顔の半分を隠す。
 ハーブティーを味わって心を落ち着けてから、胸に片手を当てた。今度は彼女が打ち明ける番だった。
「私はここに来る度、あなたが元気にしているか様子を見ているつもりだったの。でも、本当は私の方が気遣われていたのね……」
 話しながらまた照れがこみ上げ、語尾が弱くなった。テメノスは何食わぬ顔で言う。
「放っておいたら、あなたは休みもとらないままどこまでも走って行きそうですから。鉄道の発達も考えものですね」
 確かに蒸気機関車の座席で眠れば効率的に移動できる、と考えたこともあった。見抜かれたようでびくりと肩が跳ねる。おまけにこの言い方だと、テメノスが茶葉の配達を望んだのは、キャスティに旅の小休止をとらせることが目的だったのかもしれない。彼女は何から何まで配慮されていたのだ。
 この気遣いに対して返すべきものは、謝罪ではないだろう。軽くかぶりを振ってから、隣に座る神官を見上げた。
「大聖堂に来る前はいつも、どんな調合のハーブティーにしようか考えるのが楽しいの。いい息抜きの機会をくれてありがとう、テメノス」
「それなら本望ですよ」
 胸にわだかまっていたものが、空になったお茶とともにどこかへ消えたような気分だ。気のせいか、テメノスもどことなくすっきりした顔でコップを返却する。
「ごちそうさまでした。いいお味でしたよ」
「良かった。……そうだ、これを渡しておくわ」
 キャスティは鞄に水筒を片付け、今度は茶葉の入った紙袋を出した。受け取ったテメノスが中身を察して「助かります」と破顔する。これをキャスティに突き返したオルトの判断は正しかった。
「オルトさんにもあなたの居場所を知らせないとね」
「あちらの用事はもう少し先延ばしにしたいものですが……そういうわけにもいきませんね」
 テメノスがため息をついて立ち上がったので、キャスティも続いた。
 涼風が木々の間を吹き抜けて、落ち葉が宙に舞う。彼は目を細めた。
「まあ、すぐに出発というわけでもないでしょう。キャスティ、時間に余裕があるなら、明日にでもハーブティーを水で出す方法を教えていただけませんか。オルト君はその間待たせておくので」
「ええ、分かったわ」
 キャスティは微笑を閃かせ、テメノスの横に並んで崖の先の紅葉した斜面を眺めた。太陽が放った最後の光がその向こうに暮れていく。
 鉄道がここに届くのはいつになるだろうか。これから先、二人の立場はきっと大きく変化する。エイル薬師団が大きくなれば、キャスティも今のように身軽ではいられないだろう。
 それでも――彼女は団子に結った髪を揺らして振り返る。
「何もかも変わっていくばかりだけど……この先もこうやってあなたとお茶を飲みたいわ。もちろん仲間のみんなともね」
「光栄です、キャスティ」
 テメノスの陰りのない笑顔は、掲げたランタンの明かりよりもあたたかく二人の帰り道を照らした。

 

戻る