濡れ落葉のひとひら

 湿った枯れ葉がひとつ、風にさらわれて地面に落ちた。
 神官テメノスは早朝の通り雨でぬかるんだ山道を越え、赤く色づいたフレイムチャーチの町に降り立つ。折しも人々の動きが活発になる時間帯だった。
 枯れ葉が吹き溜まった石造りの階段に足をかけると、見知った顔に呼び止められた。声をかけてきたのはよく教会で手伝いをしている青年だ。
「テメノス様、この度はなんと申し上げてよいか……まさか教皇様が身罷られるなんて。あまりにも早いお導きでした」
 信心深い町人は、眉根を寄せて痛みをこらえるような表情をつくる。
「……本当に。聖火の加護があらんことを」
 まぶたを伏せて短く返した。なおも話を続けようとする町人に対して「用事があるので」と首を振り、失礼する。
 向かう先は道具屋だ。彼はそこで旅支度をするつもりだった。
 ――教皇の命の葉が落ちた翌日、テメノスは教皇代理となった神官長に「旅に出たい」と申し出た。しかし、神官長は「こちらにも準備がある。異端審問官としての職務は分かるが、少し待ってほしい」と色のない返事をした。だからこうして空いた時間を有効活用することにしたのだ。
 これからの旅路は長引く可能性がある。十分に準備を整えるべきだろう。やはり必要になるのは回復薬の類か。神官の職が与える力には精神の集中を必要とするものが多いので、「プラムを補充しよう」と考えながらドアを開けた。
「いらっしゃい。おお、テメノス様ではないですか」
 知り合いの道具屋の主が愛想よく笑う。
「お邪魔しますよ」
 と言って内部に目を走らせた。客は他にもう一人、商品棚の前に女性が立っている。
 その人は水色のワンピースにケープを羽織り、金の髪を後頭部ですっきりとまとめていた。フレイムチャーチでは馴染みのない服装だ。
 旅人か、と視界の隅で観察しながらカウンターに近寄れば、熱心に棚を見ていた女性が花のような香りとともに振り返る。テメノスは思わず足を止めた。
 彼女はじっとテメノスと目を合わせたかと思うと、唇を開く。
「もしかして、あなたは私を知っているの?」
「え?」
 唐突な質問だった。彼が返事に詰まれば、女性は慌てたように首を振る。
「ごめんなさい、私の服を見ているようだったから」
 視線に気づいていたのか。何か勘違いさせたかもしれない。テメノスは軽くあごを引く。
「気に障ったのなら失礼しました。あなたのことは存じ上げていませんが……旅の薬師の方ですよね?」
 彼女は大きく目を見開いた。
「ええ、そうなの。どうして分かったのかしら」
 フレイムチャーチには薬師の夫婦が住んでおり、テメノスはその職の特徴をよく知っていた。
「大きな鞄は薬草を蓄えて整理するために必要なものです。肩から斜めにかけているのは、手を塞がないためですね。それにこの匂いは薬草でしょう。今見ているのも薬の棚です」
 さらりと推理を披露すれば、彼女は感心したように息を吐いた。そして小首をかしげ、
「もう一度聞くけど、この服装に見覚えはないのね?」
「ありませんね」
「そう……」
 彼女はかぶりを振って、棚から見繕った品をいくつかカウンターに持っていく。あの白い花弁は調合用の素材だろう。テメノスには扱えないものだ。おまけに、一人で消費するには明らかに多すぎる量だった。
 買い物を終えた女性が振り返る。真正面に立つと、テメノスが少し見下ろす位置に顔があった。
「神官さん……テメノスさん?」
「はい」
 名を呼ばれ、返事をする。最初の店主との会話を聞いて名前を覚えたのだろう。彼女は膨らんだ薬鞄に手を置いてほほえんだ。
「何か困ったことがあったら、私に言ってね」
 え、というテメノスのつぶやきは口の中にとどまった。彼がぱちぱちと瞬きしている間に、水色の背中が扉の向こうに消える。
(普通、逆の立場のような……?)
 神官とは人々を導く存在である。テメノスのような多少職務を逸脱した者であっても、それは変わらない。
 しかし「服装に見覚えがあるか」というのは不思議な質問だった。どういう事情があれば、初対面の相手にああいうことを尋ねるのだろう。
 深淵に沈みかけた思考を、ほのかに残った薬の香りが引き戻す。そういえば名前を聞きそびれたな、と思った。

 買い物を済ませると、すぐに大聖堂に呼び戻された。
「準備が整ったので神官長が話をしたいそうだ」と連絡役の町人に知らされ、テメノスは山の中腹にある巡礼路を登る。慣れた道とは言え、短時間で往復すると体力に響いた。
 おまけに、今回は途中で魔物と出くわした。
(またか……)
 紅の茂みを揺らしてのそりと姿を現したのは、猿の亜人ウォータンである。近頃、魔除けの効果がある聖火のロウソクが不足しているため、巡礼路にも魔物がはびこっていた。教皇の葬儀の直後ですらこの有様だから、深刻な在庫不足である。
 長い腕で武器を振りかぶる亜人から即座に距離をとり、早口で詠唱した。光柱で相手を撃ち抜いて膝をつかせる。それを確認したテメノスは、さっさと通り抜けようと枯れ葉を踏む。が、その下の地面が湿っていたせいでずるりと靴が滑った。
(しまった)
 たたらを踏んだ拍子に、ウォータンが雄叫びとともに体勢を立て直した。距離を詰めてくる相手にテメノスはひやりとして杖を構え、半ば無意識に唱えた魔法で迎え撃った。相手はうずくまって動かなくなる。
 やれやれ、と声を出す。魔法の連続使用で思わぬ消耗をした。同時に、これからの道行きに若干の不安を覚えた。今は一対一だから良かったものの、もし大勢に襲われたら対処のしようがない。
 足早にその場を離れた。洞窟に差し掛かると、普段より数の減ったロウソクの火が足元を照らす。
(誰かを導いて、代わりに戦ってもらうか……?)
 少し前まで行動をともにしていた新米聖堂騎士のような、都合のいい人物はいないものか。実力があり、できればテメノスの抱えた事情や目的を話せる相手が望ましい。しかし、フレイムチャーチ近辺には知り合いが多すぎる。うっかり事情を打ち明ければ、絶対に情報を渡したくない人物にまで話が伝わりそうだった。ならば、導く相手としては大聖堂の巡礼者あたりが狙い目だろうか――
 ほとんど通り魔のような発想だ、と思いながら最後の一段に足をかけた。
 草葉を濡らす朝露は、天から降り注ぐ柔らかな日差しを受けて乾きはじめていた。一気に開けた視界の中、大聖堂の前では聖火が堂々と揺らめいている。が、教皇が死出の旅に赴いてからというもの、その青い光はテメノスの目にどこか弱々しく映った。
 入口を守る聖堂騎士に用向きを告げたところ、神官長は教皇の部屋で待っているとの伝言があった。
 テメノスにとっては家とも呼べる建物に入り、礼拝堂には向かわずに廊下を右に折れる。その一番奥にある部屋を訪ねた。中はがらんとしていて――もともと調度品が少なく質素だったが、主人を失った部屋はいっそう冷え切って見える――若き神官長が待っていた。
「すみませんねテメノスさん。込み入った話をしたくても、今はこの部屋しか空いていなくて」
 教皇の逝去だけでなく、聖窓の修復も含めて今の大聖堂は多くの問題を抱えている。そんな状況下で神官たちを取りまとめる神官長が、主を失った異端審問官に時間を割いたというだけでもありがたいことだ。
 とはいえテメノスの口からは感謝とは別の言葉が出てくる。
「神官長。……隈ができていますよ」
 その指摘に、テメノスよりもいくつか年かさの彼は疲れたように笑った。
「分かっています。あなたは思ったよりも元気そうですね」
「まあね」
 これから教皇を殺害した犯人を見つける旅に出るのだ。山道を往復した疲労を引きずっている場合ではない。
 神官長は何やら覚悟を決めたような顔をして、机の上に置いていた袋をテメノスに差し出した。
「これを旅先にお持ちなさい」
 一抱えはある袋を受け取り、遠慮なく口を開ける。中に入っていたのは、何本かに分けて束ねられた聖火のロウソクだった。思わず声が出る。
「まさか、私のために用意していたのですか」
「長旅になるなら少しでも備えがあった方がいいはず。おそらくこれでも足りないのでしょうが……」
「お気遣い、痛み入ります」
 ありがたく受け取れば、神官長は黙って微笑する。こういう時、神官長は「あなたもそんな殊勝な態度になるんですね」などとは絶対に言わない。若くして神官長に取り立てられたのは、そういう部分を教皇に気に入られたからだろう。
「私からの用件は以上です。……気をつけて行ってきてくださいね」
 おまけにこちらの事情を聞き出す気もないらしい。テメノスは素直にうなずいた。
 直後、ばたんと派手な音を立てて扉が開いた。
「大変です、神官長! あ、テメノスさん……」
 神官の一人だった。血相を変えた彼は室内に部外者を見つけ、気まずそうに口をつぐむ。
「席を外しましょうか?」とテメノスは体を反転させかけたが、
「その必要はないでしょう。あなた、用件は何ですか」
 神官長に尋ねられ、神官はテメノスの顔色をうかがいながらぼそぼそと話した。
「……実は、先日聖堂騎士クリックが捕らえた暴徒が逃げ出しまして」
「ほう」
 テメノスは分かりやすく冷たい声を出した。神官はびくりと肩を震わせ、それでも報告を続ける。
「その……教皇猊下の葬儀の混乱に乗じたようです。暴徒の監視が手薄になっていました」
 神官長が考え込むように腕を組む。
「テメノスさん、暴徒というのはどのような人物でしたか」
「聖火は偽りだのなんだのと声高に主張して、うるさい限りでしたよ。武器を振るって私を人質にしようともしましたし」
 その直後、暴徒が聖堂騎士に気を取られているうちに魔法で撃退したが。
「危険人物ですね。放置すれば信徒にも被害が及ぶかもしれません……」神官長の顔が曇る。
「いつ暴徒が逃げ出したことに気づいたんですか?」
 というテメノスの質問に、神官は「つい先ほどです」と硬い声で答えた。
 つかの間、まぶたを閉じて暴徒の思考をたどってみる。
「相手の狙いは教会関係者を害することでしょう。ならば、遠くには逃げずに大聖堂もしくはフレイムチャーチ近辺に潜んでいるはずです」
 彼は断罪の杖の柄を強く握り、ふっと笑った。
「私は明日の朝一番に出発するので、これからフレイムチャーチに戻るつもりでした。町に知らせるついでに暴徒を探してみます。これも異端審問官の仕事ですからね」
「旅立ち前にすみませんが……助かります。あなたに聖火のご加護があらんことを」
 神官長の祈りにうなずきだけを返し、テメノスはさっと身を翻した。
 登山で時間を消費したせいか、外に出るとすでに日が傾きはじめていた。山の端から覗く残光が落ち葉を照らしている。麓に着く頃には夜になっているだろう。
 広場で燃え盛る聖火を背に、日陰になっている山道へと向かう。さっそくロウソクの出番かと荷物から取り出しかけて、彼は瞠目した。
 巡礼路のそこここに配置されたロウソクが、明らかに行きよりも増えている。その全てに火が灯っているおかげで足元がぼんやりと明るくなっていた。もちろん魔物の気配はない。
 石段の上に一人の老人が座っていた。彼は揺らめくロウソクの火を満足気に眺めている。フレイムチャーチの町で長老と呼ばれている人物だ。
「おやテメノス様、これから町に行かれるのかな」
 こちらに気づいた長老が顔を上げた。テメノスは歩みを止める。
「ええ。このロウソクは一体……」
「親切な旅の方が集めてくれたんじゃよ」
 長老はなんとも嬉しそうに答えた。曰く、彼は近頃巡礼路のロウソク不足を気にかけていたが、教皇の葬儀の後始末に追われる神官に補充を頼んでも後回しにされてしまい、困っていた。そんな時、親切そうな旅人が話しかけてきたのでつい愚痴を漏らしたところ、その旅人がどこからともなくロウソクを集めてきたそうだ。
「人数の多い御一行で、先ほどまで点火の作業も手伝ってもらっていたんじゃ」
「それはそれは……」
 もはや旅人の行いは親切を通り越している。テメノスは癖で「何か裏があるのでは」と疑ったが、口には出さなかった。
「ところで旅人以外に誰か見かけませんでしたか?」
「いや、心当たりはないのう」
 つまり、暴徒がフレイムチャーチにいるとすれば、ロウソクの点火作業よりも前にこの道を通ったことになる。すでに町に到着しているかもしれない。
 勾留してからの暴徒の様子は、何度か同僚の神官から漏れ聞いていた。主にテメノスへの呪詛を吐いていたそうだ。そして魔法に当たって倒れた時に足をひねったそうで、あまり自由に動けない状態らしい。教会にとっては都合がいいので手当ても程々に放置していたと聞く。それなら山道を降りた時点で暴徒の体力は限界だろう。町のどこかに隠れた可能性が高い。
 しばらく休んでから山を降りるという長老と別れ、テメノスは巡礼路を下った。乾いた落ち葉をロウソクの火がほのかに照らし出す光景に心が和んだが、今は景色を楽しんでいる時ではない。
 魔物と遭遇することなく町にやってきた彼は、違和感を覚えた。
 町は息を潜めるように夕闇に沈んでいた。普段の同じ時刻なら、一日の仕事を終えた人々が酒場に繰り出したり、家の中から団らんの声が聞こえたりと、もっとにぎやかなのに。
 まさか、と思った彼は一直線に教会を目指した。
 一般の訪問客がいないはずの時間帯だが、煌々と灯った明かりが大窓越しに漏れている。扉を開けた先の礼拝堂には、夜回りの当番だけではなくフレイムチャーチに常駐する神官全員が揃っていた。
 挨拶もなしに入ってきたテメノスを見て、神官の一人がぽかんと口を開けた。
「テメノスさん!? 旅立たれたのではなかったのですか」
「野暮用がありまして。それよりも、もしかしてこの体制は……」
「先日捕らえた暴徒が町で目撃されたんです」
 神官ミントが青ざめた顔で言った。
 やはりそうだったか。話を聞くと、最初に暴徒を発見したのは旅人だったそうだ。巡礼路の入口付近に明らかに様子がおかしい男がいて、近づくと逃げていった――という話を、神官の一人が旅人から聞いた。くわしい特徴を尋ねた結果、それが最近町を騒がせた暴徒だったと判明したのだ。
「これから二人一組で夜回りをはじめます。すでに町人たちには家に帰って扉に鍵をかけてもらうよう伝えています」
「それがいいですね。私も調査を手伝います」
「ありがとうございます、テメノスさん」
 神官たちは緊張した様子で夜回りの順番を話し合った。そのさなか、ミントがテメノスに近づいてきて「それでは私と組みませんか」と申し出たが、彼は首を振った。
「少し考えがあって、一人で動きたいんです」
「それは危険では……」
「私一人でないと意味がないんですよ」
 口の端を持ち上げると、ミントは困ったように唇を閉じた。
 テメノスは夜回りに出る者たちを見送った。彼の他にも一組だけ教会に残って待機することになる。
 さて、と彼は考えを巡らせる。あの暴徒は白昼堂々広場に姿を現し、大声で人を集めて自らの思想を植え付けようとしていた。何かと派手な行いを好んでいるのは明らかだ。
 しかし、今回は旅人に見つかった途端に行方をくらませ、現時点では沈黙を保っている。足の怪我もあるから、やはりどこかで夜が明けるのを待っているのか。
(いや、ただ隠れているだけとは思えない。あの暴徒は神官、特に私への恨みを抱えているのだから。となると――)
 テメノスは半ば集中状態に入ったまま教会の外に出た。足を向けた先は、小さな林を挟んだ隣にある神官たちの宿舎だった。
 今、この宿舎には人がいない。おまけに神官たちは慌てて出てきたのか、玄関に鍵をかけ忘れていた。
(これは可能性が高そうだな……)
 音を立てないよう慎重に扉を開けて、真っ暗な内部に入った。杖を握りしめ、ゆっくりと床板に足を下ろす。ここの間取りはよく知っていた。玄関を入ったところにささやかなロビーがあって、左右に長い廊下と部屋が並んでいる。このどこかに暴徒が潜んでいる可能性が高い。
 ロビーの中央に立ったテメノスは持っていたランタンに火を灯した。こんな相手に聖火のロウソクを使うのはもったいない。そして、声を張り上げる。
「異端者さーん、出てきてください」
 あえて所在を明らかにした。先日の様子だと、暴徒は煽られたらあっさり姿を現す可能性もあった。そうなれば真正面から対抗できる。テメノスが一人になったのは、暴徒の油断を誘うためだ。
 彼は床を軋ませて宿舎の探索を開始した。玄関は開いていたが個人の部屋は施錠されていて、いじられた形跡もない。
 宿舎の中を隅から隅まで調べたが、結局手応えはなかった。
(おかしい。これで全部の部屋を回ったはず……空振りだったか?)
 もう一度ロビーに戻る。そこは談話室のようになっており、テーブルとソファが置かれていた。最初にも調べたが、やはり人が隠れられるような場所はない。外したか、と思いながらロビーを見回した時、冷風が髪を揺らした。
 玄関扉が開いていた。テメノスがここに入った時、一度閉めたはずだ。
(逃げたのか!)
 彼は左の廊下を先に調べたが、暴徒は反対側の廊下に潜んでいたのだろう。そしてテメノスの視界の外でロビーを抜けて、玄関から飛び出したのだ。
 急いで外に足を運んだ。扉をくぐった瞬間、背中に気配を感じた。はっとして振り向いた時には遅かった。
「くっ……!」
 とっさに開いた口が、背後から伸びてきた手に塞がれる。顔の方向が固定される直前に一瞬だけ見えた姿は、確かにあの暴徒だった。暴徒はもう片方の手でテメノスの腹部に剣を突きつけた。身動きが取れなくなる。捕まった拍子にランタンが地面に落ちて、火が消えた。
「貴様、あの時の神官だな」
 すぐ後ろから殺気立った声がした。初手で口を塞いだのは魔法対策だろう。さすがに学習したか、と冷静に考える。暴徒は戸口の裏でテメノスが出てくるのを待ち構えていたのだ。
「聖火の下僕め、こっちに来い!」
 テメノスは後ろに引きずられ、暴徒とともに教会の方へと向かう。
 相手はぶつぶつ恨み言を言うだけで、剣を振るう様子はない。この分だと、他の神官の前で見せしめにでもしようとしているのかもしれない。そんな悠長なことをしているうちに、夜回りの神官が集まってくるだろう。逃げた時点で暴徒は「詰み」だったのだ。だから、しばらくは黙って相手の主張を聞いてやるつもりだった。
 暴徒は落ち葉を踏みにじり、狂気走った台詞を吐く。
「ふん。あの教皇が死んだのも、聖火という虚構を信じていたからだ。やはり裁きが下ったのだ!」
 刹那、テメノスの頭の中ぷつりとで糸が切れた。腹の底が熱くなるような感覚があり、彼は拘束から逃れるためにもがいた。
「あ、このっ、大人しくしろ!」
 ますます拘束が強くなった。口と鼻を覆われて呼吸ができず、おまけに剣を握った暴徒の腕が腹部を圧迫し、息苦しくなったテメノスは目をつむった。
「なんだ!?」
 刹那、暴徒が驚愕の声を上げた。同時にテメノスのまぶたの裏に閃光が走り、一瞬視界が白く塗りつぶされる。何が何やら分からぬまま、テメノスは突然拘束から解放された。咳き込んで地面に崩れ落そうになった時、誰かの腕に支えられる。
「神官さん、怪我はない?」
 回復した視力が、月の光を受けて淡く輝く金の髪をとらえた。闇に塗りつぶされたエプロンが何にも染まらぬ白色をしていることを、テメノスは知っていた。
 彼を助けたのは、朝方に道具屋で出会った旅の薬師だった。彼女に肩を支えられていることに気づき、テメノスは体を離して一人で立った。刃が当たっていた腹のあたりを確認したが、切れている様子はない。
「ええ、なんとかね……」
 地面に白い花弁が散っていた。確か道具屋で売られている薬の素材で、閃光の花という名前だった。具体的な手段は不明だが、薬師はこれを目つぶしに使ったようだ。
 暴徒はうめいて目元を押さえながらも剣を構える。視力が戻れば襲いかかってくることは明白だ。テメノスは薬師と並んで身構え、暴徒と対峙する。
「ところで、今のあなたはとても困っているみたいね」
 隣に立つ薬師の目は静かにほほえんでいた。「困ったら私に言って」という別れの言葉をテメノスは忘れていなかった。彼はしっかりとうなずく。
「そうですね……困っているんです。もしよければ手を貸してくれませんか? 悪いようにはしませんよ」
「喜んで」
 女性はふっと笑った。その手に握るのは両刃の戦斧だった。あまりにも似合わぬ武器を見てテメノスはぎょっとする。
 そのまま薬師は大股で暴徒に近づいていった。ようやく視界を取り戻した暴徒は、両手で剣を握って薬師に血走った目を向ける。
「貴様も聖火の下僕か! ならばここで消し去るのみ」
 暴徒が大きく踏み込み、薬師へと剣を振り下ろす。もう遠慮する必要はないだろう。テメノスは迷わず魔法を唱えた。
「聖火の光よ……!」
 エルフリックの光が障壁のように薬師の前に立ち上り、暴徒ごと夜空を貫いた。相手がひるんで隙ができる。
「おやすみなさい」
 すかさず薬師が距離を詰めた。暗い中で何をしたのか分からなかったが、途端に暴徒ががくりとくずおれる。薬師は相手の体をそっと地面に横たえた。睡眠薬でも使ったらしく、やがていびきが聞こえてくる。
「お見事でした」
 テメノスは拍手をしたい気分で薬師に歩み寄った。斧を見た時は「薬師なのに相手を怪我させるのか」と思ったが、本当の狙いは薬で昏倒させることだったらしい。おまけに薬師はてきぱきと暴徒の治療をはじめた。眠った相手を起こさぬまま、怪我を消毒して包帯を巻いていく。
 兎にも角にも騒動は終わりを告げた。テメノスがほっとして肩を下ろすと、背後から複数の足音が聞こえた。魔法を見た神官たちが駆けつけたのだろうと思い、振り返ったが――
「キャスティ!」
 凛とした声が耳を通り抜けた。異国の装束をまとった剣士が、大きくスリットの入った服を着た女が、帽子をかぶった男がテメノスの前を過ぎて薬師に駆け寄った。
 四人は顔見知りのようで、急にいなくなるから心配した、これが例の暴徒か、薬で眠らせたから大丈夫、などとにぎやかに会話している。途中でロウソクの話が出てきたので、彼女たちが長老の話にあった「親切な旅人」だとテメノスは悟った。
 そのうちに神官たちも集まってきた。彼らは暴徒が宿舎に隠れていたことを知ると、一様に震え上がっていた。暴徒は朝まで教会の倉庫に一時勾留し、日が昇ってから再び大聖堂に移送されることになった。テメノスはそういった事務手続きを一歩引いた位置で見守った。
 すべての雑事を終えた後、神官たちは教会の前に集って、功労者たる薬師に頭を下げた。旅人の仲間たちはいつの間にかいなくなっていた。
「本当にありがとうございました、旅の方」
「いいえ、大したことじゃないから。あの暴徒は朝までは絶対に起きないから安心してね」
 あっさりした態度の薬師は、そのまま教会に背を向けた。
 テメノスは教会が建つ高台の下で、ランタンを掲げて彼女を待っていた。暗い中、ゆっくりと石段を降りた女性がこちらに気づいて目を上げる。
「あら。私に何か用?」
 冷たい風が金の前髪を揺らすさまを眺めながら、テメノスは言葉を選んで尋ねた。
「一つ聞きたいことがあります。どうしてあのタイミングで宿舎に駆けつけたのですか」
 あの時のテメノスたちは物音を立てず、明かりもない状態で人けのない場所にいた。一番近くの教会に待機していた神官たちすら異変に気づかなかったのに、どういうわけかこの薬師が真っ先に助けに来たのだ。たまたま通りがかったから、とは思えなかった。
 薬師はさらりと答える。
「あの暴徒、最初に巡礼路の入口で見た時点で足を引きずっていたの。怪我をしていたんでしょう。だから、どこか屋根のある場所に隠れているんじゃないかと思って。他の家は全部明かりがついていたけど、あの建物だけ暗かったから、調べに行ったのよ」
 なるほど。彼女はテメノスと似たような考えによってあの宿舎にたどり着いたわけだ。
 納得した彼が何度かうなずくと、薬師は笑みを浮かべる。
「これで納得した?」
「ええ。そういえばお仲間はどうされたのですか」
「先に酒場に行っているわ。今日はこの町に宿をとっているから、あそこで夕飯を食べる約束なの」
「そうですか……。もし、その前に時間があれば、少しだけ話しませんか」
 というテメノスの誘いを、彼女はすんなり了承した。
 往来で立ち話をするわけにもいかないので、場所を移動する。色づいた山々を見下ろす絶景が広がる崖際だ。今は眼下の景色が宵闇に包まれている代わりに、頭上には星が瞬いていた。
 木製の手すりに肘をのせたテメノスは、さりげなく探りを入れた。
「あなたがたは大勢で旅をしているんですね」
「そうよ」
 やはりこれはチャンスだ。彼はごく自然に切り出した。
「私は……とある事件の調査で、これから旅立つところでした。助けてくれたお礼代わりとして、あなたがたの旅に同行しましょうか」
「え、いいの?」
 薬師はぱっと目を輝かせた。意外な反応だった。むしろテメノスのメリットの方がはるかに大きい提案なのに。
 表情を緩めた彼女はこう続ける。
「良かった。……何か困っているなら、力になれて嬉しいわ」
「おっしゃるとおり一人の旅路には不安がありましたが……」
「そうじゃなくて」
 薬師が一歩近づき、こちらの目を覗き込む。
「心の不調は体に出るものなのよ。あなた、昼間からあまり調子が良さそうじゃなかったから、気になっていたの」
 テメノスは息を呑んだ。
 それは薬師特有の観察眼だろう。心の不調――馴染みの神官長ですら見抜けなかった兆候を、彼女は感じ取ったのだ。
 教皇の死は確かにテメノスの心に傷跡を残していた。樹木から切り離された葉が地面に降り積もっていくのをただ見守るような虚しさが、寝ても覚めても胸にあった。それを振り払うためにも事件の調査に出ようとしていたのだ。
 女性は手すりに体重を預け、体をひねってテメノスを見つめる。
「私たちはそれぞれ目的があって旅をしているの。あなたにもあるんでしょう、体の不調に現れるような事情が。いつか……それを聞かせてほしいわ」
「まあ、構いませんが……」
 何故だろう、「そのうち話してもいいか」という気になった。茫漠とした思いを言葉にすることで、心の整理につながる可能性もある。それに、彼女は無理に事情を詮索することはないだろう。ほぼ初対面にもかかわらず、テメノスはそう思った。
 薬師は手すりから体を離し、テメノスに向き直って片手を差し出す。
「改めて、私はキャスティ。これからよろしくね」
「テメノスです。私といれば聖火の加護がありますよ……たぶんね」
 手のひらを重ねれば、またうっすらと薬の香りがした。
 あるべき場所にたどり着いたような感覚があった。行き先を失った濡れ葉はきっと、澄みきった水の上に落ちたのだ。
 ――その後、酒場で薬師を含めた六人もの旅仲間と顔を合わせた後、キャスティが放った「私は過去のことを全部忘れているんだけど」という前置きに、テメノスは思わず「あなただって十分困っているじゃないですか」と返してしまった。飛び込んだ先がとんでもない奔流だったことに気づいた時には、もう遅かった。

 

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