海路の日和

 ハーバーランドの潮風を感じてキャスティは目を細めた。
 陽光を受けた海面が遠くできらきらしている。記憶喪失になってから、初めて船の上で目を覚ました日を思い出した。あの時の彼女はまぶたを開けると見知らぬ人々に囲まれていた。だが今は違う。
 ぎゅっとこぶしを握って気合いを入れると、旅の途中で出会った仲間たちを振り返る。
「コニングクリークが見えたわよ」
 彼女が指さした先に、海辺の町がある。カナルブラインより少し規模が小さいだろうか、色味の違うオレンジの屋根が集まっていた。
「やった! カタルアクタくん、いるかなあ」
 大股で前に出て、くんくんと鼻を動かしたのは獣人の少女オーシュットだ。魚のいいニオイがする、と喜んでいる。相棒の野犴・アカラが足元で呆れたように啼いていた。
 あそこはオーシュットの目的地の一つである。故郷の島を災いから救いうる守護者がいるそうだ。
 そしてもう一人、あの町を目指して旅してきた仲間がいる。後ろに控える長身の男に、キャスティは意を決して呼びかけた。
「オズバルド」
 学者は読んでいた本から顔を上げる。メガネの奥の瞳に色はなかった。
「確か、あそこにあなたの家が『あった』のよね?」
「そうだ」
 返事は短い。仲間たちは息をひそめて二人のやりとりを見守っているようだ。キャスティはごくりとつばを飲み込んだ。
「あなたが町に入るのはやめておいた方がいいわ」
 瞬間、オズバルドの瞳がかっと灼熱したように光った。キャスティは目をそらさず、足を踏ん張る。
 一触即発の空気を読み取ったのか、商人パルテティオが黄色い上着を翻して割り入った。
「旦那、ここで捕まったんだろ? まだ町にあんたを探してるやつがいるかもしれねえぞ」
「確かに。監獄島の件がどこまで広がっているか分からないもんね……」
 盗賊ソローネが眉をひそめてうなずいた。隠密行動の重要性は彼女が一番よく分かっているだろう。キャスティは助け舟に感謝しつつ、説明を続ける。
「だから、先に他のみんなで町の様子を見てこようと思うの。少し外で待っていてもらえる?」
「だが……」
 というオズバルドの反論を封じるように畳みかけた。
「あなたの目的のためには、慎重な行動が必要よ。何も、私たちが代わりに調査を進めるわけじゃないわ。手助けをするだけ」
 物静かな学者は目を閉じて考え込んでいる。その様子をそばにいるアグネアが気遣わしげに見上げていた。
 キャスティは仲間たちをぐるりと見回し、胸に手を当てた。
「それと、私もここに残るわ」
 オズバルドの目が見開かれる。皆もきょとんとしていた。
「キャスティが、か?」
 ヒカリが首をかしげたので、彼女はそちらを向いた。
「ええ、さっき休憩した時、近くにブドウ農家があったでしょう。あそこで話を聞いて、少し作業を手伝うことにしたの」
「あのブドウ、枯れちゃってたよね」アグネアが相槌を打つ。
「そう。私はオズバルドと一緒に町の外で待つわ」
 頭の回転が速い神官テメノスが、断罪の杖の柄で地面を打つ。
「では、私たちはオーシュットの用事が一段落して、おおよそ町の様子が分かった頃――日没前にはブドウ農家を訪ねます。宿を探すのはその後でいいでしょう」
 キャスティは首肯した。
「オズバルド……いいわね?」
 念を押すと、彼は不服そうな表情のままうなずいた。
 話が終わるのを待っていたオーシュットが、大きく伸びをする。
「ふーん、とにかくとっつぁんとキャスティは来ないんだね? ま、こっちはわたしにまかせてよ!」
「よろしくね、オーシュット」
 子どものように活発で、かつ人間の常識に疎い獣人には少し不安が残るが、他の仲間もいるので大丈夫だろう。胸を張るオーシュットを先頭に、仲間たちは手を振ったりキャスティたちに挨拶したりと、にぎやかに町へと歩いていく。
 西コニングクリーク海道は静かになった。あたりに響くのは波と風の音だけだ。キャスティは残された学者に尋ねた。
「それじゃ、私はブドウ農家に行ってくるわ。あなたはどうするの?」
 熊のような大男は、黙って近くの木の根元に座り込んだ。そしていつも持っている手帳を開く。究極魔法の研究なのか、彼はああやってよくメモを見ては何か書き込んでいた。おそらくキャスティでは理解できない数式だろう。
「魔物や野盗には気をつけてね。また後で」
 別れの言葉にもオズバルドは反応しなかった。余計なおせっかいだったかしら、とキャスティは反省する。五年間も監獄を生き抜いた彼はこの世の危険を知り尽くしているのに、ついうるさく言ってしまった。
 彼女は来た道を戻り、丘を上った。頂点に立つと、そこから海に向かっていくつも段差があり、段ごとにブドウの木が一列ずつ植わっていた。ただし、どの葉も冴えない色をしていて、実をつけている木はなかった。
 ここは元漁師だった青年がやっている畑だ。安定した収入にあこがれて一念発起し、ブドウ農家を目指して土地を買った。しかし、どれだけ世話をしてもうまく育たないらしい。ハーバーランドの気候はブドウの生育に適しているはずだが、何がいけないのだろう――休憩中に木の様子を目にしたキャスティが農家を訪れたところ、青年からそのような相談を受けたのだった。
 ブドウの実は安価な回復薬になり、葉は調合素材になる。より多くの人に救いの手を差し伸べるため、キャスティはぜひ手伝わせてほしいと答えた。記憶喪失といえど、薬やその材料に関する知識はほとんど残っていた彼女だが、ブドウを育てるノウハウは持っていなかった。薬草栽培の経験はあったようなので、それを応用するつもりだ。
 丘の上の家を訪ねると留守だったので、段々畑に下りる。ほどなく、木の下で葉に手を伸ばしている青年を見つけた。
「こんにちは。お手伝いに来ました」
 声をかけると、青年は立ち上がって疲れた笑顔を見せた。
「ああ、キャスティさん。今日はよろしく」
 彼女はまず、実際のブドウの様子を見ながらヒアリングをはじめた。
「普段はどういう世話をしているの?」
「どうって言われても……水や肥料をやってるだけだ。とにかくうまく育たねえんだよ」
「なるほど。土が悪いのかしら……?」
 キャスティはブドウの根本にしゃがみこみ、土をすくい上げた。適度に湿っていて、水はけも良さそうだ。今度は色の悪くなっている葉を触る。
「土はよく肥えているけど……肥料が多すぎるかもしれないわ」
「え、そうなのか?」青年は目を丸くした。
「たくさん撒けばいい、というものでもないのよ。ほら、ここ」
 葉の裏をめくる。そこにびっしりと小さな緑の虫がついていた。青年が顔をしかめる。
「そうそう、アブラムシが多くて困ってるんだよ」
「もしかすると、養分が多すぎて、木が害虫に対して弱くなってしまったのかもしれないわね……」
 キャスティは茶色くなった葉をちぎった。青年に袋を持ってきてもらい、その葉を入れる。
「こういう葉っぱはとってしまいましょう。あとは虫の駆除ね……ビネガーはある?」
「料理に使うものだったら」
「薄めて葉に撒いておきましょう。ある程度は害虫を予防できるはずよ」
 ひとまずやるべきことは決まった。二人は照りつける太陽のもと、広大な畑を分担して作業した。
「ふう……」
 一息ついて体を伸ばすと、戦闘や移動では使わない筋肉がぴりりと引きつり、痛みを主張した。だが、キャスティの体は明らかにこういう労働に慣れていた。間違いなくかつては薬草を育てていたのだ。今は調合素材が足りなくなる度に――できるだけ「節約」するようにはしているが――買いに行く必要があるので、自分用の薬草園でもあれば助かるのに、と思うことはある。
 波音以外に邪魔するもののない穏やかな土地で、一心不乱に葉をちぎっていたら、突然肩を叩かれた。
「キャスティさん、そろそろ休憩したらどうだい。俺、家に戻ってお茶を淹れてくるからさ」
 青年に声をかけられてはっとする。もはや太陽は中天高く昇り、あたりの気温はかなり上がっていた。
「そうだわ……オズバルド!」
 完全に放置していた。青年に断りを入れてから街道まで様子を見に行こうとしたら、
「呼んだか?」
 本人がぬっとブドウ園の入り口に現れた。背が高く表情に乏しい彼は人好きのする容姿とは言い難いので、見おろされるとなかなか圧迫感がある。「うわっ」と青年が驚いた。
 キャスティは畑の段を駆け上がり、軽く息を整える。
「どうしたの、ここまで来て」
「研究が一段落したから様子を見に来た」
「あら、ありがとう」
 キャスティが笑いかけると、オズバルドはむすっとして黙り込む。青年はその様子を見て緊張がほぐれたのか、
「お仲間さん……だよな。そっちの人の分もお茶を出すよ」と申し出てくれた。
「助かるわ。私は外で仲間と飲もうかしら」
 家で青年が淹れてくれたお茶をカップごと受け取ったキャスティは、オズバルドと一緒に丘の上の木陰に座り込んだ。青年は家に戻って休むそうだ。
 一口お茶を飲むと、濃いめの味が疲れた体に染み渡った。今度自分でハーブティーをつくろうか、と思い立つ。
「今頃、みんなどうしているでしょうね」
 キャスティはあごに湯気を浴びながらつぶやいた。コニングクリークに行った仲間たちのことだ。奔放なオーシュットに振り回されてなければいいのだが。アカラがうまく軌道修正しているだろうか。
 そこではたと気づき、隣の学者に顔を向ける。
「そういえば、オズバルドはトト・ハハ島の伝説の魔物について何か知ってるの?」
「多少は。海の守り神という話だ。守り人の一族が町にいると聞いたが、関わりはなかったな」
 彼は研究のためによく外出していたらしいので、詳しい情報を持っていないのだろう。オズバルドは会話をそこで打ち切り、視線を遠くに投げた。キャスティも自然とそちらに目を向ける。
 丘の上からは、ブドウ畑とコニングクリークの町、そしてはるか東大陸まで続く海が見える。爽やかな風があたりを吹き抜けた。
「ここは昔、何もなかった」
 オズバルドがぽつりとこぼした。効率重視の彼としては独白のつもりだったのかもしれない。だがキャスティはこれ幸いと雑談の糸口にした。
「そうね、農家をはじめたのは比較的最近だって聞いたわ」
 きっとオズバルドが北の地に囚われていた五年の間にブドウ園ができたのだろう。だから農家の青年はオズバルドを知らなかった。
 コニングクリークの町はずれには、焼け落ちた彼の自宅があるという。かつて妻と娘と一緒に暮らしていた場所だ。
 キャスティは空になったカップを膝に置いて、ゆるゆると息を吐く。オズバルドのカップはとうに空になっていた。
「本当は今すぐにでも町に入りたいわよね。無理を言って待たせてしまって……ごめんなさい」
 自分の判断が間違っていたとは思わないが、オズバルドに辛い選択を強いたのは確かだ。キャスティは胸に手を当て、謝罪した。
「いや、町を偵察するのは正しいアプローチだ」
 彼は淡々と言ったが、その心の底には煮えたぎるような思いがあるのだろう。
 不意に彼がまっすぐ視線を合わせてきた。珍しいことだった。キャスティと比べて高いところにある彼の目は、いつも遠くを見ている。
「君は……何故俺を拾ったんだ」
 小さな疑問が放たれた。この人は私のことを「君」と呼ぶのか、という静かな驚きとともに、キャスティの心は一気に彼方の雪原へと飛ぶ。
 オズバルドと出会ったのは東大陸のウィンターランド地方、コールドケープの村の手前だった。雪に半ば埋もれていた彼を発見した時、キャスティは驚くよりも先に行動した。事態が一刻を争うことは診察しなくても分かったからだ。パルテティオとヒカリに手伝ってもらって救出したオズバルドは、体の芯まで凍てついていたが、なんとか心臓は動いていた。
 すぐにコールドケープの宿に駆け込み、手当てした。オズバルドが意識を取り戻すまでの間に、浜辺で彼を拾ったという元学者の老人が訪ねてきて、話を聞いた。どうも、オズバルドは近くの監獄島から脱走してきた囚人らしい。それを知ってもキャスティは動揺しなかった。ボロボロの服の上に学者のローブを着込んだ姿――そして何よりも全身にあった凍傷から、彼がどういう扱いを受けてきたのかおおよその見当はついていた。オズバルドは村に流れ着いた時点で弱っていた体に鞭打って出発した結果、村を出てすぐの街道で倒れたのだった。
 キャスティは迷わず看護を続けたが、仲間たちからは反対意見も出た。「得体の知れない囚人とは関わるべきではないのでは」とテメノスが主張した。あれは彼が自分に求められている立場――一歩引いて冷静な判断ができること――を承知しているからこその発言だったのだろう。
 その時点で、テメノスは一番新しい仲間だった。旅の方針について、それまでのキャスティは最初に出会ったヒカリやパルテティオと話し合うことが多かったが、たいてい意見は一致していたので、あえて反論をぶつけてくる異端審問官の存在は貴重だった。
 最終判断を委ねられたキャスティは、仲間の不安を抑えるために、意識を取り戻したオズバルドから事情を聞き出すことにした。
 だが、彼は何も話さなかった。それどころか「役に立つから連れて行け」と自ら旅仲間に立候補してきた。自分はある人物を探している、そちらも目的があって旅しているのならしばらく行動を共にするのはどうだ、と。言うだけ言った彼は口を閉ざしたが、キャスティにはその胸の奥に隠した炎が見えてしまった。
 ――そよ風に金の前髪が揺れる。潮の香りとともに、キャスティの心はハーバーランドに戻ってきた。
「ただ、放っておけなかっただけよ。あなたの目的に口を出す気はないわ」
 どうしてオズバルドを拾ったのか、という問いに対する答えである。彼が究極魔法というものを追い求めていること、五年前にコニングクリークの自宅にライバルが火を放ったこと、妻と娘がそこにいてオズバルドは家族殺しの罪を着せられたことなどは、道中彼と関わるうちに判明した。旅の目的である尋ね人というのは、彼から全てを奪ったライバルだった。
 オズバルドは目をそらした。
「だが……俺がやろうとしていることは、復讐だ」
 はっきり彼の口から告げられたのは初めてだった。カップを握るキャスティの手に力が入る。オズバルドは、誰にでも救いの手を差し伸べる彼女の使命とは真逆の、命を奪うことを目的としていた。
「分かっているわ」
 キャスティは空いた手を軽く握って、胸に置く。
「私は口は出さない。でも、目の前で『その瞬間』を見たら……手を出してしまうかもしれない。だから、その時までこの話はしないようにしましょう」
 重い沈黙が舞い降りた。その間をさざ波の音が埋めた。
 今のオズバルドを突き動かしているのは復讐の炎だろう。それがなくなれば、彼は生きること自体をやめてしまうかもしれない。家族を失った彼には、もう他に「何もない」のだ。
 薬師の技術で命を救えても、患者の生きる気力まで作り出せるわけではない。それが、彼女がオズバルドを見守ることにした理由だった。
 そしてキャスティにはもう一つ、誰にも言えない思いがある。
(私には、あなたに口を出す資格なんてないのかもしれない……)
 まぶたをつむれば真っ暗闇が広がっていた。それは彼女の不透明な過去そのものだ。
 暗幕の向こうでオズバルドが口を開く気配がする。
「君がコニングクリークに入りたがらないのは、あそこに薬師ギルドがあるからだろう」
 一瞬、息が止まった。キャスティはぱっと顔を上げる。表情を取り繕おうとして失敗し、顔が歪むのが分かった。
「……そうよね、知ってるわよね。あなたはこの町に住んでいたんだもの」
 以前、クレストランド地方で神官ギルドを発見した時――記憶喪失後の彼女が初めてギルドというものを知った時――かの組織について仲間たちからざっと聞いた。同時に、薬師ギルドがハーバーランドに存在することを知ったのだった。
 かつてのキャスティはギルドに入っていたのだろうか。記憶を失って船の上で目覚めた時、持ち物にライセンスがなかったので不明だが、正直知るのが怖かった。もしギルドに入っていたのなら、カナルブラインで聞いた「キャスティと同じ青い制服を着た薬師団が、裏で患者を殺している」という噂の真相が組織に伝わっているのではないか。キャスティの失われた過去は、その罪は、知らぬうちに何もかも明らかになっているのではないか。
 彼女はこわばったほおで無理に笑った。
「私が知らなければ、過去はまだ確定していないと思っているのよ。おかしいでしょう」
 合理的なオズバルドには理解しづらい考えだろう。「知っていようが知るまいが、事実は事実だ」と思うに違いない。
 彼はしばらく沈黙してから、低くてよく通る声で言った。
「箱の中に入れた猫は生きているのか死んでいるのか、箱を開けなければ誰にも分からない。その時の猫は、生と死どちらの状態でも存在しているものだ」
「え?」
「そういう思考実験がある」
 いきなり飛躍した例え話を持ち出され、頭が疑問でいっぱいになった。キャスティはしばらく言葉を咀嚼して、今の話がオズバルドなりの分かりづらい励ましなのだと気づいた。
 キャスティは罪を犯しているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。どちらの可能性もある、と彼は冷静に指摘していた。
 彼女はカップを両手で包み込み、肩の力を抜いた。
「ありがとう。私の方が心配されちゃったわね」
 するとオズバルドは少し照れたように横を向いてから、おもむろに立ち上がった。
「……あら?」
 彼が見つめる先、街道に人影が見えた。コニングクリークの方から、目に鮮やかなオレンジと黄色の二人組がやってくる。それは彼女の仲間たち――踊子と商人だった。キャスティは驚いて腰を上げる。先頭のアグネアが元気よく手を振った。
「おーい、キャスティさん、オズバルドさーん!」
「どうしたの、二人とも」
「それがな――っておい!」
 走るアグネアが突然つんのめったので、パルテティオが焦ったように手を伸ばす。アグネアはなんとか自力で踏みとどまり、ごめんごめんと笑ってみせた。
 再会した四人は木陰で向かい合う。
「ちょっと早いけど、報告に来たの。ヒカリくんとソローネさんはオーシュットの手伝い。守り神を探すために島に渡ることになったんだって」
「あの離れ小島か」
「さっすがオズバルドさん、知ってるんだ!」アグネアが目を輝かせたが、
「アグネア、その前に旦那に報告だろ」
 パルテティオがすかさず口を挟む。オズバルドの物言いたげな視線に気づいたのだろう。アグネアは「そうだった」と口に手を当ててから、表情を沈ませた。
「あのねオズバルドさん……やっぱりまだ町に入るのは厳しそう」
「毎日衛兵が旦那の家の見回りをしてるんだとよ。しばらく前から頻度が増えたらしいから、衛兵に監獄島の話が伝わってるんじゃねえかな」
 空気にぴりっと緊張が走る。無言のオズバルドから放たれたのは魔力か怒気か、どちらだろうか。アグネアが慌てて顔の前で手を振る。
「あ、でもオズバルドさんが生きてることはまだバレてないと思う。見回りの兵士は『なんで廃屋を監視する必要があるんだ』って不満そうだったらしいし。きっと、もう少ししたら落ち着くべ!」
「……承知した。町に入るのは次の機会にする」
 オズバルドは押し殺した声で答えた。キャスティは眉を下げて彼を見る。
「いいの?」
 他の仲間の目的もあるため、一度この町を離れたら次はいつ戻ってくるのか分からないのだ。
「構わん」
 彼はそれ以上何も言わなかった。とにかく納得はしてもらえたようだ、とほっとする。
 キャスティは町から戻った二人を改めて見返す。それから最初に聞いた話を思い出し、
「そういえばテメノスは?」
 町に残ったメンバーには入っていなかったはずだ。「それはねー」ととっておきの話をするようにアグネアが唇に人差し指をあててから、後ろを指差す。キャスティはつられて視線を動かした。
 深緑の長衣をまとった神官が、悠然と街道を歩いてくる。
「遅くなりました」
 彼はこれみよがしに断罪の杖を持っており、後ろには見知らぬ男性がついている。神官の「導き」によって連れてきたのだろう。
 男性の青い衣を見て、キャスティは息を呑む。テメノスはうやうやしく男性に手を向けた。
「こちらはコニングクリークの薬師ギルドの現マスターです」
 ぎゅっと心臓を掴まれたようだった。キャスティの顔色が変わったのを悟ったか、パルテティオが気まずそうに眉を下げる。オズバルドから静かな視線を感じた。
「どうして……」
 彼女の小さなつぶやきにも、テメノスは動じない。彼はおそらくオズバルドとは違うアプローチによって、こちらの心境を見抜いたのだろう。その上で、ギルドマスターを連れてきたのだ。
 マスターが揺らがぬ表情で一歩前に出た。
「あなたがキャスティさんだね」
「は、はい」
 予めテメノスが何か話をしていたようだ。キャスティは後ずさりたくなるのを我慢してうなずいた。己の罪状も知らぬまま刑の執行を待つ気分だった。
 マスターは真顔を崩し、ふっとほほえんだ。
「いい顔をしているね。大勢の人間と関わる人の顔だ。きっとあなたはそういう運命を持っているんだろうね」
 キャスティはびっくりしてぱちぱち瞬きした。彼は構わずに続ける。
「人を癒やすには人と出会い、人を知らなければならない。あなたは薬師に向いているよ。……申し遅れたが、私は二年前から薬師ギルドのマスターをやっているんだ」
 それで彼も農家の青年と同様、オズバルドのことを知らないのか――と頭の隅で考えながらも、動揺したキャスティはろくに言葉が返せなかった。怖くて仲間たちの顔を確認できない。
 マスターは穏やかに続けた。
「テメノス殿に言われて、名簿を見返したんだ。確かにあなたの名前があった」
 いっそう緊張が高まり、キャスティはごくりと喉を鳴らす。つまり記憶を失う前の彼女はギルドに所属していたのか。
「ただ、あなたは登録する時に一度ギルドに来たきりだったようだ。先代のマスターの頃だろう。残念ながら、彼はもう亡くなられたが……。
 とにかく私とあなたが会うのは初めてだよ。そして……青い制服の薬師団の噂については聞いている。東大陸で何か事件があったようだが、ここからは遠すぎて、まだ真偽を確かめられていないんだ。
 だが、きっと何かの間違いだと、あなたを見て思ったよ」
 マスターは決然と言い切った。言葉がじわりとキャスティの胸に染み込む。彼はただの一言で、見事に不安を払拭してくれた。
「ありがとう……ございます」
 キャスティはうつむきながらそう言った。下がった視界の中で、マスターが懐から紙を取り出す。
「漂流した時にライセンスをなくしてしまったと聞いたよ。これをどうぞ。お仲間の分も」
 渡されたのは、青い縁取りがある二枚の紙だった。所持者を薬師ギルドの一員として認める、という簡潔な一文が書かれている。
「いいんですか?」
 紙を握ったキャスティがどきどきしながら顔を上げれば、マスターはにっこりする。
「あなたにはそれだけの力があるということだ。仲間の方々もそう認めているよ」
 キャスティは思わず仲間たちを振り返る。アグネアとパルテティオは笑顔で首肯し、テメノスとオズバルドが穏やかに促していた。
「大切に扱います……」
 こみ上げてきた思いとともに、彼女は紙切れを大事に胸に抱いた。マスターは「また今度、あなたの事情が落ち着いたらゆっくり話そう」と言い残して、町へと戻っていった。
 もし本当に過去のキャスティが何か事件を起こしていたら、ライセンスを発行した側も責任を問われるだろう。だがマスターはそれを許容し、ともに背負うことにしたのだ。
 マスターを見送ったテメノスが視線をこちらに戻し、しれっと言った。
「……さて、本日の宿ですが、オーシュットたちが泊まる分を除けばもう満室のようでして。我々は野宿するしかないようです」
「え、そうなの?」
 キャスティが驚いて問い返すと、パルテティオがぎこちない笑みを浮かべ、アグネアがもごもご言いながら目を背けた。
 内心で苦笑する。きっとこの三人は――あるいはオーシュットたちも含めて――町に入れないオズバルドを気遣ったのだ。彼が一人で野宿する羽目にならぬよう、相談して口裏を合わせてきた。
 察したキャスティはぱんぱんとスカートの埃を叩き、ほほえんだ。
「なら仕方ないわね。今日はみんなで星を見ながら寝ましょうか」
 今晩は、彼らが見てきたコニングクリークの話をたっぷり聞かせてもらおう。オズバルドも気になっているはずだ。にやりとしたパルテティオがコインを指で弾いた。
「それがいいな。とりあえず、俺たちは町に買い出しに行ってくるぜ」
「お願いね」
 キャスティは丘の下に広がるブドウ畑にちらりと視線をやった。思ったよりも休憩が長引いてしまった。また作業に戻らなければ。
 上着を翻して去っていくパルテティオを追いかけようとしたアグネアが、つと立ち止まった。
「そういえばブドウのこと、うちの村のおじいさんなら知ってるかも! 名人って呼ばれてるの。今度帰ったら聞いてみるね」
「助かるわ。私も育て方を教えてもらいたいくらいよ」
 彼女の故郷クロップデールは果物で有名な村だ。きっとブドウ農家の助けになるだろう。
 最後に、黙って商人と踊子についていこうとしたテメノスに「ちょっといい?」と声をかける。
「……なんですか?」
 足を止めた彼はわずかに眉をひそめた。キャスティは笑みを向ける。
「マスターを連れてきてくれて、ありがとう。私の不安はすっかり筒抜けだったのね」
 いつの間に暴かれていたのかしら、と腰に手を当ててうそぶいてみせたら、彼は「そんなことはしてません」と心外そうに答えた。
「アグネア君たちが言い出したんですよ。きっとキャスティは薬師ギルドが気になっているのでは、と。ですから、あなたに会う前に、マスターに少し名簿を調べてもらっただけです」
「そう? でも嬉しかったわ」
 最初にマスターの姿を目にした時は、もしや過去の罪を容赦なく裁かれるのかと思ってびくびくしてしまったが。
 テメノスは軽く肩をすくめてから、きびすを返した。
 丘はまた静けさを取り戻した。オズバルドと二人きりになったキャスティは彼に近寄り、その無骨な手をとる。
「はい、これ」
「……ライセンスか」
 渡されたものを見て学者は目を瞠った。一見ただの紙切れだが、ソリスティア大陸ではこれ以上ない効力を発揮する代物だ。キャスティは口の端を持ち上げる。
「薬師、やってみない? あなたに向いていると思うの。散歩が日課だったなら、体を動かすとアイデアをひらめきやすくなるのは分かってるはずよ」
 それに、薬師の仕事をこなせば体力がつく。オズバルドの体は鍛えられているが、おそらく監獄での生活が相当堪えているのだろう、意外に打たれ弱い部分があった。
「……考えておこう」
 つれない返事をしながらも、オズバルドは丁寧な手つきで紙を懐にしまった。キャスティはくすりと笑う。
 海の上に雲がかかり、隙間から日差しの帯が覗いていた。今は遠いあの光の下に、いつか自分たちはたどり着くだろう、と彼女は予感していた。

 

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