まだ見ぬ友への処方箋

 物心ついた時にはその感覚がそばにあった。「それ」は常にヒカリを乗っ取ろうと虎視眈々と狙っているかのようだった。
 正体も何も分からず、まともに他人に相談できたことはない。ただ一つ確かなのは、「それ」は血を見ると騒ぎ出す、ということだけだ。
 ――額にびっしりと汗をかいて目覚めた。
 ヒカリは仰向けになって掛ふとんをはだけていた。視界には見覚えのない天井が広がっている。ここは天幕の中か。視線を横に向けると、幕の隙間に明るい日差しが見えた。かすかな風とともに砂塵が吹き込み、彼は目を細める。
 三日前、ヒカリは燃え落ちるク国城下町から馬を拝借して逃げ延びた。それから集落ごとに馬を替えては砂漠を走り続け、昨晩やっとこのリューの宿場へたどり着き、部屋をとって倒れるように眠ったのだった。
 がばりと上半身を起こした彼は、すぐに紐を取り出して髪を束ねる。ぼうっとしている場合ではない。影の具合から考えてすでに日は高く昇っているようだ。いつ追手がかかるか分からぬ状況であり、一刻も早く砂漠を抜けたかった。そして東大陸、第一の友たるカザンがいるモンテワイズへと向かうのだ。
 この大きな天幕の中にはいくつかの仕切りがあって、旅人たちが個室で休める仕組みになっていた。彼は人相を隠すための頭巾をかぶり、身支度を整えて自分の仕切りから出る。
 目覚めが遅かったためか、他の仕切りに人の気配はなかった。そのまま天幕の入口を目指す。
(……ん?)
 布一枚隔てた外が騒がしかった。ヒカリは警戒しながらそっと入口の裏に立って、耳を澄ませる。
「俺らにあんなまずいメシ出しやがって!」
「申し訳ありません。弁償しますから、どうか怒りをお収めください……!」
 乱暴な声と弱々しい声が何やら揉めていた。後者は昨日少しだけ話した宿の主人のようだ。ヒカリはかちゃりと腰の剣を鳴らす。すわ喧嘩沙汰か、と反射的に飛び出しかけて、踏みとどまった。
 今のヒカリは追われる立場だ。道中の街道でも「ク国で弟王子の反乱があった」という噂を何度か聞いた。その度に頭巾を深く被り直したものだ。リューの宿場はク国から遠く離れているが、じきに噂が届いてもおかしくない。ここで正体がばれる危険を冒してよいものか――
「ごめんなさい、ちょっといいかしら」
 逡巡するヒカリの耳に、涼やかな女性の声が入ってきた。柔らかくも決して己を譲らぬ声色で、聞けば水滴が落ちたように胸が静まる。
 天幕の隙間から外を覗き見る。ほとんどごろつきと化したような格好の兵士が三人、刀を構えていた。角度が悪くて肝心の女性の姿は確認できない。
 兵士たちは女性の登場にうろたえたようだ。
「なんだ、お前は」
 彼女は剣呑な声にもひるまずに答える。
「旅の薬師です。もしあなたたちが食事でお腹を壊したのなら、私が診てあげられるわ」
 水を差された形になった兵士はいきり立った。
「うるせえんだよ!」
 その叫びを聞いた途端、ヒカリは天幕の入口を開けて走り出した。
 一気に広がった視野に飛び込んできたのは、空色のワンピースをまとい、たんぽぽ色の髪を持った女性だ。宿の主人をかばうように、ただ一人で兵士の前に立っている。
 無論ヒノエウマの生まれではないだろう。なるほど街道の中継地点ではこのような異国の者が訪れるのか、と一瞬だけ考えてから、ヒカリは女性の前に躍り出てごろつきの一人に斬りかかった。
「うわっ」
 兵士はとっさに自分の武器をかざしたが、素早い太刀を受けきれずによろめいた。他の二人がざわめく。
「おい、そこの剣士! どきやがれ」
「そうはいかぬ。そなたたちこそ剣を収めろ」
「てめえ……邪魔すんじゃねえ!」
 相手は横並びに展開する。頭巾を被ったままのこちらの正体に気づいた様子はない。ヒカリは油断なく剣を構えながら背中に声をかけた。
「そなたは早く後方へ――」
 その時、砂漠にそぐわぬ緑の香りがヒカリの脇を駆け抜けた。
「はあっ」
 女性が大きな戦斧で薙ぎ払うと、ごろつきが驚いて飛び退いた。うまい具合に相手が一人と二人に分断される。
 その太刀筋から、明らかに戦い慣れていることが伺えた。ヒカリは即座に判断した。
「助かる。そちらの一人は任せた!」
 応える代わりに、女性はこちらに背中を見せて兵士に向かっていった。
 一方のヒカリは残った二人を相手取る。ごろつきが刀を振り回した。見るからに鈍重な動きで、ヒカリはその場から動かずのけぞってかわす。だがその拍子に頭巾が脱げ、隠していた黒髪がばさりと広がった。
 ごろつきの目が大きく見開かれる。
「お前、まさか……」
 まずい、ここで正体がばれたら――ひやりとする感覚とともにヒカリが覚悟を決めた時、
「剣士さん、息を止めて!」
 横合いから女性が呼びかけた。ヒカリはとっさに口を閉じる。すると、女性の方向から何かが飛んできて、ごろつきたちの前にぼんと煙が立つ。白いもやに視界が遮られた。
(なんだ……!?)
 ヒカリは剣を構えたまま見守る。煙の向こうでどさりと音がした。やがて追い風にもやが散らされると、兵士は三人とも砂の上に倒れていた。いびきが聞こえてくる。
 戦いの終わりを悟った彼は、ぱちりと音を立てて剣を鞘に収め、砂の上を歩いてきた薬師に尋ねた。
「もしや、今のは薬なのか」
「ええ。いたずらに血を流す必要もないでしょう?」
「そのとおりだな」
 ヒカリは感嘆の息をついた。彼女は武器を振るわずに戦いを収めたのか。改めて女性を観察すると、腰に大きな鞄をつけていた。あそこから薬を取り出したのだろう。
 兵士を倒した二人のもとに、宿の主人がやってくる。
「剣士様、薬師様。助けてくださってありがとうございます」
 薬師は首を振った。
「このくらいはなんてことありません。あの人たちは警備の方にでも引き渡してください」
「そうします。あの、何かお礼を――」
「礼などいらぬ」
 とヒカリが言った直後、腹から低い音がした。そういえば朝食がまだだった。女性がくすりと笑う。
「お腹の虫はそう言ってないみたいよ?」
「す、すまぬ……」
 赤面するヒカリに対し、主人は表情を和らげた。
「良ければここで食事していきませんか。一応、まずくはないつもりですので」
 街道の中継地点たる宿場町で宿の食事がまずい、ということはありえないだろう。きっと、あの兵士はどんな理由でもいいから難癖をつけたかったのだ。ヒカリは軽く頭を下げた。
「馳走になる」
「薬師の方もどうぞ」
「いいんですか? ありがとうございます」
 女性は柔らかくほほえんだ。そのひだまりのような雰囲気からは、戦闘時の勇ましさは微塵も感じられなかった。
 主人に「ここで待っていてほしい」と案内されたのは、日よけの下にあるゴザだ。さっさと座ったヒカリと対照的に、女性は立った状態でまごついていた。
「えっと……」
「靴を脱いで、足を畳むのだ。その服装なら両足を横に流した方がいいだろう」
「こうかしら」
 彼女はブーツを脱いで恐る恐るゴザの上に座った。い草の感触を手で確かめては目を丸くしている。
「ヒノエウマは初めてか?」
 ヒカリは揃った目線の高さで尋ねた。
「そうよ。改めて、私はキャスティ。見ての通り旅をしているの」
「俺は……ヒカリだ」
 相手に倣って姓は省略した。キャスティは身を乗り出す。
「ヒカリ君って呼んでもいい?」
「構わぬが……」
 おそらく彼女は歳上なので、自然な呼び名である。しかし新鮮な心地がした。今までは己の立場や身分を知る者とばかり接していたのだな、とヒカリは実感する。
 女性は物怖じしない性格らしく、次々と質問を重ねた。
「ヒカリ君はこのあたりの出身よね。なら、サイの街を知っているかしら」
「ああ。何か聞きたいことでもあるのか」
「私は東のカナルブラインからそこを目指してきたの。この宿場の南にあるのよね?」
 ヒカリは少し考え、脳裏に地図を描いた。
「それなら、リューの宿場よりも手前に分岐があったはずだ。こちらの街道を進んでもたどり着けないぞ」
「え、そうなの? 看板を見落としたのかしら……」
 キャスティは困ったように首をかしげていた。旅は不慣れらしい。ヒカリは腕組みする。
「俺が道案内したいところだが、今は別の目的があって……できぬのだ」
 追手がかかっていることを考えると、今サイの街へと戻るのは危険である。
「そう……目的って?」
 無邪気に尋ねられ、ヒカリは言葉に詰まる。とりあえず当たり障りのない情報だけ開示することにした。
「東大陸のモンテワイズへ、友のもとを訪ねるのだ」
「なら、私もそこへ行こうかしら」
「え?」
 ヒカリはぽかんとする。思わず素が出てしまった。キャスティは指折り数えながら話を続ける。
「今、私の目的地は二つあるの。サイの街と、もう一つは東大陸の町ね。だからいつかは海を渡りたいのよ。というより、いろいろな場所を巡ること自体が目的というか……」
 それで突然行き先を変更したのか。ずいぶんいきあたりばったりな旅である。ヒカリはやや困惑しながら尋ねた。
「もしや、俺に同行したいのか?」
 キャスティはうなずき、まっすぐにこちらを見て言う。
「ええ。あなたがひどい寝不足のようだったから……何かあったんじゃないかと思って。私がついていったら体調も診られるでしょう」
「ま、待て……」
 ヒカリはうろたえた。寝不足を見抜かれたことにも驚いたが、どう考えてもこれは出会ったばかりの相手にする扱いではない。
「気持ちはありがたいが、俺は一人で――」
「お待ちどおさま!」
 そこにお盆を持った主人が割り込んできた。おかげで話がうやむやになってしまう。
 差し出されたのは、せいろに入った蒸し料理――まんじゅうだった。これが宿の名物だ、ゆっくり召し上がれ、と言って主人は去っていく。
 ヒカリがせいろの蓋をとってみせると、蒸気が湧き上がる。キャスティは歓声を上げた。
「これはどうやって食べるの?」
「手で掴んでだな……」
 説明しながら自分でもまんじゅうをほおばる。白い皮のもっちりした食感を楽しみ、続いて中から染み出した熱い肉汁を味わった。ここ数日ひきずっていた疲れが癒やされていく。
 強い日差しは屋根に遮られて届かず、水場が近いのか少し湿り気を含んだ風が体を程よく冷やす。改めて、ク国の惨状が嘘だったかのようなのどかな光景だった。
(いや、ムゲンを放置してはこの地にも戦火が届くかもしれぬ。早く友を集めなくては……)
 ヒカリはぐっと奥歯を噛み締め、決意を新たにした。
 彼の内心など知らぬキャスティは、満面の笑みで料理を平らげる。
「初めて食べたけど、おいしかったわ」
「先ほどの兵士たちにも伝えなければな。ここの食事は決してまずくなかったと」
 二人はひとしきり笑い合った。
 それから、ふと沈黙が訪れた。昼間の宿場町は静かで、声が届く距離には誰もいない。ヒカリは頃合いを見計らって口を開く。
「……キャスティ。俺には、決してそなたを付き合わせられない事情があるのだ」
 ヒカリはきょとんとする彼女に低い声で語り聞かせた。
 ク国で起こった出来事と、ひたすらに血を求める兄のこと。謀反者と呼ばれながらも、兄に対抗するため一人で友を探しに行くこと――
 時折省略しながらも、紛れもない事実を語った。さすがにこんな事情に首を突っ込む者はいないだろう、と考えてのことだった。
 しかし、結果的にこの判断は完全に間違いだった。
「なるほどね……。それを聞いたらますます放っておけなくなったわ」
 キャスティは両目を鋭く光らせ、強い口調で言い切った。
 面食らったヒカリは虚しく唇を開閉する。彼女はヒカリが王子であることにも一切動じず、今の話を事実と認めた上で同行を申し出ていた。
 キャスティは目を細める。
「ねえ、あなたの言う『友』にはどこまで入っているの? 同じ志を持った人? だったら、見ず知らずの旅人は友には入らないの?」
 痛いところを突かれた。ヒカリは真剣に考え込む。
 彼は城下町でともに過ごした者たちのことも、身分の貴賤に関係なく友と呼んだ。中でも戦場で肩を並べた者たちにはやはり思い入れがあった。今は道を違えてしまったが、リツだってその範疇に入ると思っている。
 それなら、旅先で出会った者はどうなるのだろう。そもそもク国の事情を知った上で介入してくる存在など予想していなかった。彼は困惑しながらも、答えを出そうと己の胸に語りかける。
 ――と、誰かが乱暴に砂を蹴る音が耳に入った。ヒカリは反射的に腰を浮かせる。
「あんたはさっきの……あっ!」
 食器を片付けに来た宿の主人がその人影に突き飛ばされ、砂の上に尻もちをついた。人影はこちらへまっすぐ走ってくる。ヒカリの正面、キャスティからは背後の方角だ。
「さっきはよくもやってくれたな、王子様よ!」
 先ほどのごろつきの一人だった。宿の主人が警備に引き渡したはずだが、勾留場所で目覚めてどうにか拘束を解き、逃げ出したのか。兵士はどこかから奪ったと思しき短剣を握っていた。
 ヒカリはとっさにキャスティを突き飛ばした。相手の振り下ろした刃は避けきれず、小手をまとった腕で受ける。
「ぐ……!」
 ぱっと血が吹いた。彼は歯を食いしばって痛みに耐え、刺さったままの短剣を奪い取った。
「なんだとっ」「ヒカリ君!」
 兵士が驚愕し、ゴザの上に倒れ込んだキャスティが叫ぶ。ヒカリは腕から短剣を抜くと、うろたえるごろつきを掴んで組み伏せた。
「ぎゃっ」
 当たりどころが悪かったのか、後頭部を地面に叩きつけられた相手は気を失ったようだ。ヒカリはそのままの体勢ではあはあと息をつく。腕からたらりと赤色が流れ落ちた。
「ヒカリ君、大丈夫!?」
 キャスティがそばにやってきて座り込み、鞄の中身を探る。「無事だ」と返事しかけたヒカリの視線は、自分の流した血に引き寄せられた。
(まずい……)
 目の前が赤黒く染まっていく。頭の中であの声が「体を明け渡せ」と叫んでいた。キャスティの呼びかけがだんだん聞こえなくなる。
 今はだめだ、こんな場所で自我を手放せば大惨事になる。落ち着けばいつものように抑えられるはず――だが、今は引きずった疲労がそれを妨げた。あの声が耳の奥で高笑いしている。
 曖昧な感覚に支配されたまま、ヒカリは短剣を握った。気絶した兵士に向かって振り下ろすが、何かに弾かれる。はっとした。狭い視界に、斧の柄で兵士を守った薬師の姿が映し出される。
 次の瞬間、「ヒカリ」は彼女に向き直った。
(やめろ!)
 彼は渾身の力で自らの体を押し止める。己との戦いのさなか、キャスティと真正面から目が合った。
「ヒカリ君……ごめんなさい」
 申し訳なさそうな声とともに、目の前にあの煙が立った。

 うっすらとまぶたを開けば、また同じ天井が見えた。リューの宿場の天幕だ。ただし前回よりも日が傾いており、天幕の中は橙色に染まっている。
「目が覚めた?」
 仰向けに寝そべるヒカリの枕元にはキャスティがいた。薬師という肩書の通り、看病していたのだろう。
「これを飲んで。落ち着くから」
 彼女が湯呑を差し出したので、ヒカリは上体を起こして受け取る。中身は程よく冷ました白湯だった。舐めると、何かの草と塩の味がする。気づかぬうちに喉が渇いていたようで、ヒカリは一気に飲み干した。
 気を失う前まで彼を蝕んでいたあの影は、いずこへと去っていた。驚くほど胸が凪いでいる。
 ふと視線を落とす。腕に包帯が巻かれていた。
「そなたが手当てしてくれたのか。ありがとう。怪我はなかったか?」
「ええ。あなたと、さっき襲ってきた人以外は誰も。ヒカリ君が取り押さえてくれたおかげね」
「そうか……」
 それきりヒカリは黙り込む。何をどう説明していいのか分からなかったのだ。すると、キャスティの方から切り込んできた。
「さっきのあれは何だったの? いきなりあなたの雰囲気が変わって、暴れ出して……なんだか別人になったみたいだったわ」
 さすがに出会ったばかりの彼女にもあの豹変は異常だと感じ取られたのか。キャスティがとっさに睡眠薬で昏倒させなければ、どんな被害が出ていたか分からない。薬師の冷静な判断に感謝しながら、ヒカリは力なく首を振った。
「分からぬ。幼い頃から俺の中にいて、ああして時折出てくるのだ」
「中に……」
 するとキャスティの顔色が変わった。彼女は鞄から分厚い手記を取り出し、筆記具を用意する。
「どんな時にあの症状が出るの? 例えば、とても疲れている時だとか……。覚えている限りでいいから教えてちょうだい」
 真剣に尋ねられ、ヒカリはじっくり考え込む。共通点として、一つだけ明確なことがあった。
「血だ。俺は自分や他人の血を見ると、ああなることが多い」
「なるほどね……」
 キャスティは紙に何かを書きつけた。それから手記を閉じて、ヒカリにしっかりと目線を合わせる。
「あなたはずっと一人であれを抱えてきたのね」
 そのとおりだった。ヒカリは黙り込む。キャスティはぴんと背を伸ばして言った。
「今のところ、似たような症状に心当たりはないわ。でも、要因が分かれば対処法だって考えられる。こうやって記録していけば、何か解決の糸口がつかめるかもしれないでしょう」
「対処法を……」
 ヒカリは軽く息を吸い込んだ。
 そんな方法は考えたためしがなかった。あの力に呑まれている時のヒカリは、詳細に記録を取っている場合ではなかったこともある。だが、「誰かと協力して情報を集める」などという対策は思いつきもしなかった。
 キャスティが畳み掛ける。
「あなたが険しい道のりを歩もうとしていることも、できればそれに他人を巻き込みたくない気持ちも分かるわ。でも、さっきみたいな症状がいつ出るか分からない状態で、一人きりでモンテワイズまで行けるの?」
 ヒカリはぐっと詰まる。今まで「あの声」に抵抗できていたのは、周囲にいる親しい者たちへ被害を及ぼさないためでもあった。彼らがそばにいない状況では歯止めをかけられず、のちのちまずい事態を招くかもしれない。
 そこでキャスティは一転して口元をほころばせ、鞄から中身の減った薬瓶を取り出す。
「私なら、万が一の時にも適切な処置ができるわ。どう、一緒に行く気になった?」
 ヒカリは大きく息を吸い込んだ。ゆるやかに鼓動する胸に手をあてて、尋ねる。
「そなたはどうして……会ったばかりの者のために、そこまでするのだ」
 彼女は少しだけ考えるように首を傾けてから、ひとつうなずく。
「薬師として私がやらなくちゃいけないことだから。もう体が勝手に動くのよ。それに、放っておいたら戦がはじまるかもしれないんでしょう。見過ごせないわ」
 キャスティの静かな瞳を覗き込み、ヒカリはどきりとした。
 それは多くの死を見てきた者の――戦場に立ったことがある者の目だった。
 ヒカリは異母兄ムゲン相手に無血開城は不可能だと悟っている。戦のない世をつくるために剣を振るうしかないという矛盾に気づいていながら、その道を歩もうとしている。
 その旅路に、かつての友以外を付き合わせることはあまり想定していなかった。だが、この薬師とならばともに歩むことができるのではないか。その「もしかして」は、彼女の他にも仲間が見つかるかもしれない、という希望にもつながった。
 ヒカリの最終目的は、決して一人では成し遂げられない。キャスティの言う通り、単独ではモンテワイズにもたどり着けない可能性だってある。そんな中で、「ともにク国の戦を回避したい」と言ってくれる人がこの大陸にどれだけいるのだろう。
 長考の末、心を決めたヒカリは手を差し出した。
「キャスティ。俺に、そなたの力を貸してくれぬか」
「喜んで」
 キャスティはにこやかに笑ってその手を取った。なんだかしっくりくる感覚で、ヒカリの胸に新たな火が灯ったようだった。
 手を離した彼は、「ところで」と首をかしげる。
「そなたはサイの街や東大陸へ何をしに行くつもりだったのだ?」
 キャスティは笑顔のまま答える。
「私は海を漂流していたところをカナルブライン行きの定期船に拾われたの。しかも、目が覚めたらほとんどの記憶を失っていてね」
「……え?」
「でも運が良くて、記憶の手がかりが東と西の町にありそうだと分かったわ。だから、大陸をまわって他にも知っている場所がないか探しながら、目的地に向かうことにしたのよ」
 流れるような説明にヒカリはぽかんと口を開いた。
 記憶喪失。つまり、彼女は自分がどこから来た何者なのかも分からないのだ。ならば「彼女は戦場に立ったことがある」というのは単なるヒカリの勘違い――もしくは彼女の奥底に埋もれた記憶の片鱗だったのか。
「そうか。これは一本とられたな」
 ヒカリが肩を震わせて笑えば、キャスティは不思議そうに瞬きする。
 彼女がそんな大変な状況にあると知っていれば、ヒカリもさすがに彼女をムゲン討伐に付き合わせることは躊躇しただろう。
 大事な情報を伏せて交渉する手腕は見習うべきかもしれない。たとえキャスティにその気がなかったとしても。
 ひとしきり笑いの衝動に身を委ねれば、最後に残った疲労が消えていく。愉快な旅路になる予感がした。今なら何の違和感もなく彼女のことをこう呼べるだろう。
「お互いの目的のため、この剣を存分に振るおう。……友よ」

 

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