涙雨のひとしずく

 ざあざあという水音が鼓膜を叩く。
 目を覚ました時、キャスティは地面に横たわっていた。視界の端で、解けた髪がやわらかい布の上に広がっている。
 彼女はゆっくりと起き上がり――途端に呼びかけられた。
「おっ、目が覚めたー? よく寝てたね」
 昼夜問わず明るい声はオーシュットのものだ。
 彼女たちは洞窟の中にいた。オーシュットが座るのは入口側だ。キャスティのそばには暖を取るためか焚き火の燃えかすが残り、明かりの絞られたランタンがあたりを照らしていた。他の仲間たちは洞窟の奥の暗がりで雑魚寝しているらしい。
 外は真っ暗で、おまけに雨模様だった。鳴りやまない水音を聞き、思わず身を硬くする。
 キャスティの反応に気づいたかどうか、オーシュットは持っていた骨付き肉にかぶりつき、屈託なく笑った。
「雨、ちょっと弱くなってきたよ。あっ干し肉食う? さすがに今日は干せないから、古いやつだけどねー」
 彼女はすかさず別の肉をキャスティに差し出す。
「ごめんなさい、遠慮するわ」
 キャスティは苦笑とともに首を振った。起きたばかりの胃に肉は厳しい。彼女はオーシュットの隣に移動し、腰を下ろした。
 今は真夜中のようだ。洞窟の入口から顔を出すと、湿った空が見える。ランタンの薄明かりに真っ暗な森が浮かび上がった。
「私……倒れたのよね、確か」
 リーフランド地方、北ウェルグローブ森道に差しかかった時のことだ。前をゆくオーシュットがくんくんと鼻を動かしたかと思うと、相棒のアカラと顔を見合わせて「もうすぐ降ってくるよ」と告げた。仲間たちは慌てて駆け出したが、程なく雨雲に追いつかれ――キャスティはそれ以降の記憶がない。
 おそらく、一行はこの洞窟を見つけて雨宿りすることにしたのだろう。が、結局雨は止まず、野宿になったのだ。
 オーシュットが小首を傾げた。
「キャスティっていつも前歩いてるのに急にいなくなったから、びっくりしたよ。そしたらオズバルドが後ろから担いできたんだ」
「そうたったの……」
 あの時は、雨粒が体を叩く度に足取りが重くなるような感覚があった。おぼろげな意識の中で、誰かに背負われた記憶もある。あれはオズバルドだったのか。
 ふと思い立ったキャスティは、自分自身を診察する。脈拍を確認し、手鏡で顔を見た。血色は悪いが、突然気を失うほど体調を崩していたとは思えない。
(となると、これは心因性の……)
 考え込むキャスティに、オーシュットが地面に両手をついて顔を近づけた。
「ねえ、もしかして雨苦手なの?」
「……分からないわ」
 鈍い痛みを感じて腕をさする。袖に隠れたその場所に、薬品か何かが原因でできた黒い痣があることを彼女は知っていた。
 オーシュットは不思議そうにぴくぴくと大耳を動かす。
「あー、キオクソーシツだから? でも嫌かどうかくらいは分かるんじゃないの」
「そうね、多分……雨にはいい思い出がなかったのね」
 少し前に立ち寄ったサイの街で、キャスティは己の記憶の断片を垣間見た。その中に、紫の雨が降る場面があった。思い出すだに寒気がする光景だった。
 上体を戻したオーシュットは、丸裸になった骨をぺろりと舐めて食事を終えた。毎度のことだが、本当にきれいな食べ方である。
「いきなりバタッと倒れちゃうくらいだもんねー。わたしは濡れるの平気だけど、毛皮が湿るのは嫌だっていう獣もいるし」
「確かに、濡れるのは気持ちがいいことではないわね」
「あっそうだ。キャスティ、寝てる時になんかぶつぶつ言ってたよ。マレーヤとかって……あっ」
 途端にオーシュットが両手で口を押さえる。
「これ、言っちゃダメなんだった……」
「え?」
「なっ何でもないよ!」
 彼女は目をつむってぶんぶん首を振る。キャスティはくすりと笑った。以前「たまに独りごとを言っている」とオズバルドから指摘された件だろうか。オーシュットが口止めされたということは、こちらの与り知らぬところで仲間の配慮があったのだ。
 キャスティは仲間たちに対し、記憶がないことへの不安をしばしば吐露している。相手の負担にならない範囲で胸中を明かすことは、体の健康を保つためにも重要であり、彼らも真剣に応じてくれた。おかげでずいぶん気が楽になったものだ。
 キャスティは膝を抱え、際限なく雨を吐き出す雲を見つめる。
「雨のことも含めて、早く……思い出さなくちゃね」
 雨が降る度に気を失っていては仲間たちに迷惑がかかる。しかし、原因が分からないとろくな対処ができなかった。失った記憶にどれだけ不穏を感じようとも、こればかりは自分で向き合わなくてはいけないのだ。
 しばらくキャスティの横顔を眺めていたオーシュットは、不意にからりと笑った。
「大丈夫だってキャスティ。ほらっ」
 すっと伸ばされた指につられて、視線を上向ける。リーフランドに連なる木々の天辺に、ちらりと光が覗いた。遠くに雲の切れ間があって、そこから朝日が顔を出していた。
「もうしばらくしたら晴れるよ。昼にはウェルグローブって町に着く予定だよね。何かウマいもんがあるといいなー」
 あくびとともに大きく伸びをしたオーシュットは、未知の食に思いを馳せて目を輝かせる。キャスティの顔にも自然と笑みが広がった。
「見張り、交代するわ。ありがとうオーシュット」
「分かった! あ、干し肉食べていいからね。今日はいい夢見られそうだなー」
 食料を入れた袋を示したオーシュットは、機敏に立ち上がって寝床に戻っていく。
 その姿を見送った後、キャスティは洞窟の壁によりかかり、明るんできた空の端をじっと眺めた。

「キャスティさん、本当にここに泊まっていいの……?」
 アグネアが遠慮がちに室内を見回す。あたりには埃っぽいにおいが充満し、オーシュットがひくひくと鼻を動かしていた。
 そこはかつてキャスティが薬師団の仲間とともに暮らした場所だ。ヒールリークスという村の入口にあり、診療所を兼ねているためベッド数が多い。おかげで男女で別れて四人ずつ同じ部屋に入ることができた。安宿にはない贅沢だ。
 今晩はここで休もう、と提案したのはキャスティだった。彼女はまごつくアグネアに「気にしないで」と返す。その脇で、ソローネが抜け目なく調度品を調べた。
「薬師の家だっけ。確かに薬棚があるね」
「薬、なくなってるけど?」オーシュットが指す棚には空き瓶しか残っていない。
「誰かに持っていかれたみたいね……」
 キャスティは肩をすくめた。無人となった家に忍び込んだ者がいたのだろう。薬棚には劇薬のたぐいもあったから、悪用されないことを願うしかない。
 診療所のベッドは埃をかぶっていた。オーシュットが布団を引き剥がして勢いよく叩いたので、近くにいたアグネアがけほけほとむせる。キャスティは苦笑して寝具を整えた。
 ソローネが装備を外しながら言う。
「こういう場所って盗賊なんかのねぐらになりそうだけど、綺麗なもんだね」
「不吉な場所だから、誰も近づかないのかもしれないわ」
 キャスティの返事に仲間たちが黙り込む。しまった、と思えどもう遅い。
「でも、外におじいさんとおじさんがいたし、山の方には魔物もいっぱいいたよ」
 オーシュットの発言で、停滞した空気はあっさりと払拭された。内心で感謝しながら、キャスティは今日の出来事を思い浮かべる。
「昼間はみんなを驚かせちゃったわよね。私が独りごとを言いながらあちこち歩き回るから……」
 髪を解いたアグネアがゆるゆるとかぶりを振る。
「驚いたっていうより、心配だったよ」
「崖から落ちかけたしねー」オーシュットが頭の後ろで腕を組む。
「そうそう。ヒカリくんがいなかったら危なかったんだから!」
「あれは申し訳なかったわ……」
 キャスティは目を伏せる。次々と蘇る記憶に夢中になった挙げ句、彼女は足元への注意を欠いてリフィア山の頂きから落下しかけたのだ。そばにいた剣士がとっさに手を伸ばさなければどうなっていたことか。
 本日、一行はヒールリークスを出発してリフィア山を登り、その後ニューデルスタ港の停泊所まで行った。海辺に着いた時には日が沈みかけており、パルテティオの船で一晩を過ごす案も出たが、他ならぬキャスティがこの村に戻ることを希望したのだ。
「でも記憶が戻ったんだろ」ソローネが静かに言う。
「ええ。おかげさまでね」
 それきりキャスティは口をつぐむ。取り戻した記憶について、仲間にはくわしく話していない。しかし仲間たちもなんとなく察しているのだろう、深く追及することはなかった。
「じゃあ今日はぐっすり眠れるね! おやすみー」
 オーシュットは真っ先にベッドに寝転がると、あっという間に眠りに落ちた。旅のはじめは人間の寝具に慣れてなかった彼女だが、「ふかふかして気持ちいい」らしく、今ではすっかりお気に入りだ。
 他の三人も穏やかな視線を交わし、ランプを消して布団に潜り込む。キャスティは窓のそばのベッドに横たわった。
 暗闇の中でアグネアがつぶやく。
「キャスティさん、ゆっくり休んでね」
「ありがとう。ちょっと疲れちゃったわ。薬師が体調不良なんていけないものね」
 仲間たちの気遣いが身に染みる。胸のあたりにあたたかさを感じながら、キャスティは目を閉じた。
 男性陣のいる別室からはほとんど物音がしなかった。かつてのヒールリークスも、夜はとても静かだったものだ。
 ――ぴくりとまぶたが動き、意識が浮上する。
 キャスティが目覚めた時、部屋は真っ暗なままだった。周囲からすうすうと寝息が聞こえてくる。
 まだ夜中だろう。キャスティは何度か寝返りを打って眠気を待ったが、すっかり目が冴えてしまった。
 上半身を起こす。窓に手を伸ばして少しだけカーテンを開け、ぼんやりと外を眺めた。このままいても眠れそうにないので、「外を歩き回ってみよう」と思い立つ。
 いつものケープは羽織らず髪も下ろしたまま、玄関先で眠るアカラを起こさぬよう注意して外に出た。曇っていて月の見えない夜だった。キャスティは伸びた草で覆われかけた小道をランタンで照らしてゆく。
 最初はただ散歩するつもりだったが、一歩また一歩と土を踏むうちに、目的地が定まった。
 ――昼間、老人と出会った。旅の途中で事件直後の村に立ち寄った彼はやりきれない思いを抱き、村人全員を埋葬したという。さらに自ら墓守の役割を引き受けてここに滞在しているそうだ。
 キャスティの足は村の奥へ向かった。木柵に囲われた広場はかつての放牧場だ。そこに、名前すら刻まれていない墓標が並んでいる。土が盛られて木の棒が突き出しているだけの簡素なものだが、精一杯丁寧につくられていることはひと目で分かった。老人はこれだけの数を一人で埋葬したのだ。
 キャスティはそこに眠る人々の名前を知っていた。しかし、墓標に刻むためとはいえ今さら遺体を掘り返すわけにもいかない。彼女はじっと墓を眺め、無意識に数を確かめる。
(……足りないわ)
 村人たちと薬師団の仲間たちを数え上げて、首をかしげる。しばらくしてその理由に思い当たった。
 そうだ、この墓地に眠るのは村の中にいた人だけ。「一人と一匹」が足りないのだ。
 キャスティは柵を乗り越え、墓標に近づく。
 その時、背後でいきなり足音がした。心臓が縮み上がる。
「こんな夜中に何をしているんですか」
 落ち着いた声が背中を叩き、彼女はほっとして振り返った。
「……びっくりさせないで、テメノス」
 ランタンを持った神官が胡乱な目つきでこちらを見ている。彼はキャスティと違ってしっかりと法衣を着込んでいた。
「驚いたのはこちらです。小用に起きたら外に出ていくあなたが見えたのですから」
「ごめんなさい。なんだか……眠れなくてね」
 キャスティは目をそらし、粗末な墓標をじっと見下ろす。テメノスが呆れたような声を出した。
「だからといって、墓参りには不向きな時間では?」
「そうね。でも、お墓の数が足りなくて……つくろうと思ったの」
 ニューデルスタ港付近ではマレーヤとジーハの遺体は見つからなかった。二人がそこで最期を迎えた、というのはあくまでキャスティの想像だが、別れ際の様子からしてほぼ間違いないだろう。
 遺品も何もないからこそ、二人の墓標が欲しかった。マレーヤたちの存在が忘れ去られていくのは耐えられない。今や村人たちの顔と名前を正確に覚えているのは、キャスティと――あの雨を降らせたトルーソーだけだ。
 墓が足りないだのつくるだのと、説明不足の自覚はある。神官の推し量るような視線が気まずくてうつむいていたら、衣擦れの音がした。テメノスが柵を乗り越えてきたのだ。
「手伝います」
 キャスティは目を見張った。彼らしくない、思わぬ積極性だった。
「え? いいわよ、そんな」
「ただの気まぐれですよ」
 と言いつつ彼は腕まくりをしている。気を遣わせてしまったのだろうか。キャスティは肩の力を抜いた。
「……なら、よろしく頼むわ」
 と言っても大した作業はない。まわりの墓標と似たような木を探し、盛った土に刺してそれらしく整えるだけだ。二人はほとんど無言で作業した。
 やがて、一応墓と呼べるだけの風体になった。最後にキャスティは鞄から白い花――ユキシズクを取り出す。カナルブラインへ向かう船の中で見つけた時点で「重要なものだ」と勘付いていたため、いつでも調合に使えるよう乾燥させていた。
「本当はこれが形見みたいなものだけど……まだ私が持っているべきよね」
 マレーヤも、自分の墓前に備えさせるためにキャスティに託したわけではないだろう。彼女は花を胸に抱いて目を閉じる。
 続いて神官たるテメノスが前に出て、祈りを捧げる。その姿は堂に入っていた。普段の態度がどうあろうと、彼が死者に対して常に真摯に向き合うことをキャスティはよく知っていた。
 その背を見ているうちに、胸の奥に押し込めていた疑問がふっと浮上する。彼女は振り返ったテメノスに声をかけた。
「手伝ってくれてありがとう。……一つ、気になっていたことがあるの」
「何ですか?」
 キャスティは静かに相手の目を覗き込む。
「テメノス。あなた、本当はこの村で起きたことをずっと前から知っていたんじゃない?」
 ごくりと喉を鳴らしたのはどちらだっただろう。つかの間、瞬きできないほどの緊張が流れた。
 ぬるい風がそよぐ。ランタンに照らされたテメノスの表情は凪いでいた。そこに、年下の仲間を相手にする時のようなおどけた調子はない。
 彼は肩をすくめた。
「やれやれ、私がこういう立場になるとはね……」
「いつもは審問する側だものね」
 キャスティは苦笑する。この発言からすると、あちらも多少はひやりとしたのかもしれない。
 二人は墓の前から移動し、牧場の木柵に横並びで寄りかかった。
「……どうしてそう考えたのですか?」
 テメノスは最初の質問に対して否とも応とも答えぬまま、穏やかに尋ねる。キャスティはうなずいた。
「停泊所でこれからの行き先を決める時、地図を見て気づいたの。こことフレイムチャーチは、山を挟んですぐ近くにあるわ」
「そうですね。街道をゆく時は分かりづらいのですが」
「リフィア山よりフレイムチャーチの方が標高が高いから、視界が開けているでしょう。あの日の雨雲もよく見えたと思うの」
 事件の日、風は山に向かって吹いていた。特に大聖堂からは紫に染まった雲が一望できたのではないか。ならば、異常に気づく者もいただろう。
 キャスティはまっすぐにテメノスを見つめる。
「初めて会った時、あなたは私の服装のことを知らないと言っていたけど、本当は……」
 にわかに湿った風が吹いた。
 一粒の雫がほおに当たる。キャスティの体がこわばった。
(……雨だわ)
 暗くてよく見えないが、空が真っ黒な雲に覆われていた。もうすぐ雨が降ってくる――!
 息が浅くなり、指先がみるみる冷たくなっていく。力が抜けて体が崩れそうになり、とっさに強く柵を掴んだ。
「キャスティ!」
 叫んだテメノスの行動は迅速だった。
 彼は自分の白い上着を脱ぐと、フードごとすっぽりキャスティにかぶせたのだ。キャスティは驚いて声を出せないまま、腕を引かれる。
 テメノスは降り出した雨から逃れるように、すぐ近くの家に駆け込んだ。牧場の母屋だ。
 扉が閉まる。キャスティは神官に導かれて、近くにあった椅子に座った。ぐったりと背もたれに寄りかかる。その拍子に髪の先から雫が垂れて、床を濡らした。
「大丈夫ですか?」
「ええ……ありがとう」
 なんとか声を絞り出した。体の震えに抗うように、ぎゅっと白い上着の端を掴む。
 やはり雨が苦手なことはばれていたのだ。キャスティは記憶がない頃から無意識に忌避していたので、傍から見れば一目瞭然だっただろう。
 だがテメノスはそれについて深入りせず、窓に近寄ってカーテンを開けた。
「しばらく止みそうにありませんね」
 キャスティはその横顔を眺めながら呼吸を整え、なんとか平静を取り戻そうとする。
 この母屋には薬師団として何度も訪れたことがあった。家主の顔もよく覚えている。年老いた両親から牧場を受け継いだ青年は、経営を軌道に乗せるために人一倍努力していた。
 部屋は荒れていないが、めぼしいものは持ち去られているようだ。家の中を見てきます、と言ったテメノスはランタンをかざして部屋から消え、すぐに戻ってきた。
「奥に寝室がありましたよ。辛いのでしたらベッドに横になっては?」
「大丈夫。座っていたら楽になってきたから……」
 それきりキャスティは唇を閉ざし、ワンピースに覆われた膝を見つめた。
 少し離れた場所に立つテメノスが、不意にぼそりとつぶやく。
「ヒールリークスの噂を聞いたのは、フレイムチャーチから紫の雲が見えた少し後のことです」
 キャスティは息を呑んだ。それは雨が降る直前のやりとりの続きだった。
「……村にいた薬師団が事件を起こしたらしい、とも聞きました」
 やはり、という思いが強くなる。彼女はワンピースの胸元を握り込んだ。
 ぎいと床板が鳴った。テメノスが椅子の正面で屈んだのだ。キャスティはおそるおそる顔を上げた。幸いなことに、彼の瞳には負の感情など一切浮かんでいなかった。
 彼は噛んで含めるように告げた。
「ですが……あなたに出会った時点で、薬師団の服装を知らなかったのは事実です。この村とのつながりに気づいたのは、あなたの事情を聞いてからでした」
 聖火に誓ってもいいですよ、とテメノスは口角を上げる。彼がそこまで言うのは珍しい。今の話をよく咀嚼したキャスティは、おもむろに身を乗り出す。
「……私がエイル薬師団にいたと分かった時、どう思ったの」
「噂は真実ではないと確信しました」
「どうして?」
 反射的に尋ねると、テメノスはすっと背を伸ばして断言する。
「あなたのような人が属する組織が、あんな事件を起こすはずがないからです。少なくとも、あなたが犯人ということはありえないと判断しました」
 ずいぶん買いかぶられているようだ。キャスティは首を振った。
「でも、記憶をなくす前の私が全く別の性格だった可能性もあったでしょう」
 実際、キャスティは一度ならず「自分は噂通りの事件を起こす人物だったのかもしれない」と疑ったことがある。記憶を取り戻す過程で自分の性格が過去と一致していることを知った時は、心底ほっとしたものだ。
「何故あなたを信用したのか……それはもう、私個人の感覚でしかありませんね」
 テメノスは嘆息して言葉を濁した。
 それはつまり、信じたいから信じてくれているのだろう。理屈ではないと言われ、キャスティは胸が軽くなる心地がした。いつの間にか体の震えはおさまっていた。
 雨はしとしとと屋根を叩き続けている。キャスティは窓の外の暗闇に、先ほどつくった墓標を透かし見た。
 少しだけ心が落ち着くと、今度は苦い後悔がこみ上げる。
「私、どうして記憶を失っていたのかしら。本当に手遅れになるところだったわ……」
 事件を起こしたトルーソーは、別れ際に「次はティンバーレインの戴冠式に雨を降らせる」と宣言した。キャスティはそれを思い出した瞬間、慌てて仲間たちに戴冠式の日程を確認したものだ。リーフランド出身のアグネアが「ずっとずっと先の話だよ、大丈夫!」と答えるまでは、生きた心地がしなかった。
 キャスティは湧き上がる衝動のまま、腕に残った黒い痣をもう片方の手で強く掴む。
「私だけ生き残ったのは、苦しみから逃げるためじゃないのに……!」
 彼女は己の過去に対して不安を抱えていた。「記憶がないままの方が幸せかもしれない」とテメノスにこぼしたことすらある。あれも結局は逃避だったのでは――
「それは違います」
 テメノスの手が、痣を掴むキャスティの腕を引き剥がした。はっとしておもてを上げれば、彼は目をそらす。
「……そのことを、私がこれから証明しましょう」
 あっけにとられたキャスティはぱちぱちと瞬きした。テメノスは人差し指を立てる。
「あなたは以前、『記憶喪失は忌まわしい過去を忘れるために自ら起こす事例もある』と言いましたね?」
「ええ。だから私は、自分に都合よく記憶を消してしまったのかもしれない……」
「ですが、あなたは常に記憶を取り戻すために旅をしていました。本当に事件から逃避したいのなら、そんな行動はとらなかったはずです。あなたは目の前に幻を作り出してでも、熱心に記憶を追っていました」
 その指摘に思い当たることがあった。キャスティは目を閉じて、深く心の内側に潜り込む。
 記憶をたどることは怖かったけれど、「いつかは向き合わないと」と思っていた。薬師団に関する聞き込みも積極的に行なった。仲間たちの目的に助力している間もそのスタンスは変わらず、この村にたどり着くまで彼女は一度たりとも足を止めなかった。
 テメノスは真剣な視線をこちらに注ぐ。
「記憶喪失が起こったのは、事件のショックから一時的に心を守るためでしょう。それに、紫の雨の効果である可能性も考えられます」
 彼がこうやって整然と理屈を並べているのは、キャスティを励まそうとしているからだった。その思いを正しく受け取り、彼女は肺にわだかまっていた空気を一気に吐く。
「あなたの言うとおりね。ちゃんと思い出せたんだから、後悔しても仕方ないわ」
 それに、彼女がこうして仲間と出会えたのは記憶を失ったからだ。マレーヤが海に逃がしてくれなければそもそもキャスティは生き残れなかったし、仲間がいなければ一人でティンバーレインに向かうしかなかった。彼女のそばにはいつも誰かがいる。初めての仲間であるヒカリだって、停泊所で「今は俺が隣にいる」と勇気づけてくれたものだ。
 キャスティは憑き物が落ちたような気分になって、ほおを緩める。
「テメノスは優しいわよね」
「……急になんですか?」
 彼は訝しげに片眉を上げた。キャスティはますます笑みを深める。
「いいえ。他の人にも同じように接したらいいのに、って思っただけ」
「勘弁してくださいよ……」
 彼は苦りきったような返事とともに顔をそらし、キャスティの正面から退く。相手によって態度を変えたり、皮肉を言ったりするのは彼なりの処世術だろう。だが、テメノスはどういうわけかキャスティに対しては常に真面目に、穏やかに接する。おかげでこうして二人でいる時は貴重な姿が見られて、少し得をした気分になる。
 幾分か具合が良くなったので、キャスティは立ち上がった。濡れた靴でぺたぺたと床を踏み、ランタンを持ってテメノスの隣に並ぶ。彼はすっと窓の方へと視線を流した。
「ねえ、どうしてこっちを見ないの?」
 テメノスは答えず、ますます首をそむける。
「もしかして、私が泣いてると思った?」
 髪から垂れた雫が涙のように見えたのかもしれない。濡れて額にはりついた前髪を指で避けると、今度は湿った服が気になって、胸元をつまんだ。
「そういうわけではありませんが……」
 観念したように視線を戻したテメノスは、何故か大きなため息をついた。
 カーテンを開ければ、相変わらず分厚い雨雲が見える。ただ、少しだけ雲の色が明るくなっていた。向こう側に太陽が覗いているのだ。
 テメノスが静かに尋ねる。
「まだ止まないようですね。どうしますか、キャスティ」
「そろそろ戻ろうかしら。みんなに心配されちゃうわ。あ、この上着、もう少しだけ貸してくれる?」
「構いませんよ」
 了承を得たキャスティは白いフードをかぶった。これで小雨くらいなら大丈夫だ。それに今の彼女は一人ではなく、向かう先は仲間たちの待つ場所だった。
 キャスティは神官を振り返り、片手を差し出した。
「私はここで立ち止まるわけにはいかないわ。だから……神官さん、迷える羊を導いてくれる?」
 テメノスはその手を取ると、心の底から安堵したように口元を緩めた。

 

戻る