大人しくしてください

「はあ……なんだか暑くなってきたわね」
 その吐息混じりの声を聞いた時、テメノスの背中に寒気が走った。
 目の前にはすっかり酔いの回った薬師キャスティがいる。とある町の酒場のカウンターで、二人は穏やかに談笑しながらグラスを傾けていた――はずだった。
 彼女の潤んだ瞳と赤らんだほおを、テメノスは戦慄しながら見守る。話に夢中になって、キャスティの状況に気づかなかったなんて!
 彼女の指がゆっくりと動き、肩にかけた水色のケープを外す。ケープは丁寧にたたまれて膝の上に置かれ、次にきっちり留められた首元の第一ボタンに手がかかった時、テメノスは我に返った。
「キャスティ、待ってください」
 反射的にその手を掴んで止めた。酔っ払ったキャスティはきょとんとしてこちらを見上げる。
「どうして? 脱ぎ着をして体温調節をするのは当然よ」
「それはそうなんですが、ここでは、その……」
 テメノスはちらりと周囲に視線をやった。酒場はほぼ満席だ。幸いにも二人の両隣にいる客はそれぞれの会話に夢中になっており、バーテンダーの位置も遠い。が、この攻防が続けば異変を悟られるのは時間の問題だ。
 彼が周りに気を配っている間に、キャスティは何気ない仕草であっさりと手を振りほどき、改めて自分の服に触れた。
「ああ……」
 テメノスの口から情けない声が漏れる。分かっていたが、彼女は力が強い。半端な制止では意味がなかった。一番上のボタンが外され、白い喉元が見えてテメノスは息を呑んだ。
 そもそも、どうしてこうなるまで現状に気づけなかったのだろう。混乱したテメノスの思考はあらぬ方向に飛ぶ。
 ――日中は自由行動で町を探索した後、皆で揃って酒場に入り、夕食を楽しんだ。その帰り際に、キャスティがぽつりと言ったのだ。
「この酒場、前にテメノスがおいしいって言っていたワインがあるのよね」
 テメノスもメニューを見た時点で気づいていた。だが、先ほどの晩餐には合わない味だったので注文は控えていた。
 何かを期待するようにキャスティが見つめてくる。テメノスはふっと口元をゆるめた。
「……飲みますか? 私も少し物足りなかったので、付き合いますよ」
「いいの? そうしましょう!」
 彼女はぱっと両手を合わせる。その華やいだ表情を見れば、悪い選択ではなかったと思えた。
 キャスティは基本的に酒に強いが、全く酔わないわけではない。しかも、閾値を超えると突然衣服を脱ぎだす癖がある――というのは以前アグネアから聞いた話だ。彼女がその悪癖を目撃した時はヒカリもそばにいたが、彼は真顔で「俺は見ていない」と言って目をつむるので、事態の収拾が大変だったという。
 そのことを念頭に置いていたテメノスは、当初は注意して杯を進めた。二人でハーフボトル一本とし、チェイサーを頼むことも忘れなかった。だが、今思えば徐々に会話に没入してしまったことが敗因だろう。
 穏やかに味の感想を言い合う中で、キャスティがふと「今日行った患者さんの家なんだけどね……」と話しはじめた。
 その家の二階には大きな出窓があった。不思議なことに、そこには大人くらいの身長を持つキャットリンのぬいぐるみが、家の外を向いて配置されていたそうだ。
「カーテンも開いたままだったのよ。どうしてあんなところに置いてあるのか気になったんだけど、診察の途中で聞けなくて……あれは一体何だったのかしら」
 なかなか興味のそそられる謎だった。テメノスは軽く身を乗り出し、質問する。
「その家に子どもはいたのですか?」
「息子さんが一人。でも二十歳を超えていて、ぬいぐるみで喜ぶ感じでもなかったのよね……」
 それから二人であれこれと推理した。はっきりした答えのない、謎解きとも言えない憶測だ。それが無性に楽しくてテメノスがのめりこむうちに、いつの間にかキャスティがここまで出来上がっていた。
(いや……今はこんなことを考えている場合ではない!)
 彼は再び目の前の厄介ごとに向き直った。幸い回想に浸っていたのはごく短時間だったようで、キャスティは手で火照った顔を仰ぎながらもう一つのボタンに指をかけているところだ。
 こんな場所で薬師としての彼女の評判を落とす訳にはいかなかった。無論、これ以上衆目に肌を晒すことも絶対にできない。
 テメノスは自分の上着の留め具を外した。
「キャスティ、とりあえずこれを」
「あら?」
 上着を脱いで、キャスティの肩にかけた。さらに前の留め具を握り、ひとまずキャスティが抵抗しづらい形にする。彼女は困惑したように瞬いた。
「これだと暑いわ」
「アルコールの作用はあなたもご存知でしょう。体感温度が変わるだけですから、安易に着衣で体温調節するのは危険では?」
「それは……そうだったわね」
 相手が薬師で助かった、ひとまずこの説明で時間は稼げた。だが手は離せない。しばらくしたら、きっと同じような押し問答になることは明白だった。
 テメノスはなんとか別方向から説得を試みる。
「キャスティ、もう結構飲みましたよね。そろそろ宿に戻りませんか」
「でも……まだ少しお酒が残っているわ。あなたのおすすめ、おいしいからもっと飲みたいの」
 幸せそうにほほえまれ、テメノスは「しまった」と唇を噛む。気づけば空のボトルが一本カウンターの上にある。彼は話の途中から酒の残量に気を配っていなかった。結局最初の注文だけでは足りず、キャスティはもう一本ハーフボトルを頼んでいたのだ。
 キャスティがもぞもぞと上着の中で腕を動かしたかと思うと、テメノスの手をそっと握り込んだ。他意はないと分かっていても、彼は動けなくなった。
「テメノス……だめかしら?」
 たった一言で反論できなくなる自分が腹立たしい。ワインを気に入ってくれたこと自体はありがたいし、キャスティの悪癖さえなければテメノスももう少し長居したい気分だが――
 こうなれば手段を選んでいられない。すぐに打開策を練る必要があった。テメノスもそれなりに酒を飲んだはずが、異様な緊張感ですっかり頭が冷えている。おかげで思考は加速した。
 彼女をおとなしくさせるにはどうしたらいいのだろう? せめて酒場から宿に連れ帰りたい。だがキャスティはどんな説得にも応じる気配がなかった。
 ならば最も穏便に済む方法は、どうにか彼女に眠ってもらうことだ。今まで酔ったキャスティが眠る場面など見たことがないが、それしかない。
 強制的に眠らせる手段といえば、薬か? しかし持ち合わせはないし、薬師相手にそれは無謀だ。酒に混ぜるにしてもソローネ級の腕前がなければ不可能だろう。
 他の方法で眠気を誘うには――そこで脳裏に閃くものがあり、テメノスの意識は現実に浮上した。
 いつもよりぼんやりしたキャスティの青目が、不思議そうに細められる。
「キャスティ、少し私の話に付き合ってもらえませんか」
 テメノスは手で上着の前を合わせたまま、にこりと笑った。

 すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。ちょうどグラスに残った最後の一滴を飲み干した時、テメノスは隣の席に誰かが座る気配を感じて首を回した。
「全然帰ってこないと思ったら、まだ飲んでたんだ」
 面白がるような顔をしてカウンターの天板に肘をつくのは、盗賊ソローネだ。先に宿に行っていたはずだが、おおかたキャスティを心配して探しにきたのだろう。
 彼女のぱっくり開いた胸元はもう見慣れてしまったのに、キャスティの服のボタンが一個外れただけであれだけ焦ったのは何故だろう――テメノスは埒があかないことを考えた。
 ソローネは彼の横でカウンターに突っ伏しているキャスティを見やる。白い上着は肩にかけたままだった。
「まさか、酔い潰したの?」
「人聞きの悪い。例の癖で服に手をかけはじめたので、眠ってもらったんですよ」
「あんたも闇討ちできるんだ」
「冗談を。とっておきの話をしたんです」
 ソローネが続きをねだるような視線を投げ、空のグラスを持ち上げて手首を回した。テメノスは渋々説明した。
「……昔、教皇がしていた説教を借りました。非常にありがたくて、長いお話で……信徒たちが船をこいでいるのを大聖堂でよく見ました」
「やるじゃん、紙芝居審問官」
「紙芝居は関係ないでしょう」
 アグネアから聞いたのか、おかしな呼び名をされた。言いたいことはなんとなく分かるが。
 ソローネは椅子から立ち上がって、キャスティの顔を覗き込む。
「で、なんで寝かせたまま放置してんの? 連れて帰ってきたら良かったのに」
「意識を失った女性に触れることなんてできません」
 膂力が足りなくて運べなかったから、では断じてない。きっと後で事情を話せばキャスティ本人は受け入れるのだろうが、テメノスがそれを許せなかった。
 ソローネが一瞬鋭く目をすがめた。
「……相手がキャスティだから、したくないんじゃないの?」
「まさか。あなたでもアグネア君でも同じ話ですよ。オーシュットは別かもしれませんが……」
 獣人の彼女も二十歳を超えているが、ついそれが意識の外になってしまうこともある。ソローネはふっと笑って肩をすくめた。
「私はこうはならないけど。じゃ、私が運ぶしかないんだね」
「あなたには貸しをつくりたくなかったのですが……」
 額に手を置き、心底残念な気分で言うと、ソローネはにいっと口の端を釣り上げた。それから丁寧な動作でキャスティを背負う。闇討ちの名手だけあって人体の扱いには慣れたものだ。
「この貸しの分、今度は私も含めた三人で飲もうか。焦るあんたを見物させてもらいたいね」
 やめてくださいと答えつつ、テメノスは太平楽に眠りこけるキャスティを眺める。
 以前ヒカリが言っていた。出会った当初、キャスティはここまで露骨に酔うことはなかったと。彼女が深酒するのは、それなりにこちらに気を許している証拠だ。
「ですが……無防備が過ぎますよ、キャスティ」
 彼女は酔っている間のことはほとんど忘れてしまう。明朝彼女に会ったら、「昨日はこんなに大変だった」と幾分誇張した話でからかってやろうか。散々焦燥をかき立てられた分の意趣返しにはなるだろう。
 いや……それよりも、あの推理の続きを話したい。ただ穏やかに、他愛もないやりとりを交わすのだ。その方がずっといい。
 眠るキャスティに近寄ってほおを軽くつつくと、彼女はうーんと唸っていた。

 

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