心の地平を照らすもの 1

「聖火神エルフリックの御名により、神官テメノス・ミストラルを異端審問官に任命する。今後、心してその務めに励むように」
 教皇は重々しい声を大聖堂に響かせ、断罪の杖を掲げた。先端に聖火のシンボルをかたどった杖は、人々が畏怖のまなざしを向ける「異端審問官」たる証だ。
「……謹んで承ります」
 祭壇に立つ教皇の背後には大きなステンドグラスがはめ込まれた聖窓がある。テメノスはそこから降り注ぐ日差しに目を細め、杖を受け取った。
 杖の下端を石床について振り返れば、大聖堂の身廊に揃った神官たちの視線が集まる。同僚たちは今までと少し違う目でテメノスを見ていた。
 異端審問官とは今代の教皇が新たに設けた役職であり、その歴史は浅い。基本的には教皇の補佐だが、少々いかつい名称の通り異端者を「暴く」役割を持っていた。ただ一人きりで教会の内外を見張る審問官は、聖堂騎士とは別個に独立した存在である。
 集まった神官に対し、断罪の杖を持ったテメノスが軽くうなずいたことで任命式は終わりを告げた。人々は祭壇のテメノスと教皇を残して身廊から退出していく。
 最後尾に続こうとした教皇に、テメノスが声をかけた。
「少し待ってから出た方がいいですよ。ロイの時は大変だったでしょう」
 立派な白いひげをはやした教皇は、見た目の通り儀式の際は威厳に満ちた空気をまとう。が、それ以外の時間は好々爺といって差し支えのない老人であった。彼はテメノスの助言に一瞬ぽかんとしたが、すぐに顔をほころばせた。
「ふふ……あの時は新聞記者に囲まれたのだったな」
「そうです。式が終わっても二人が全然戻ってこないので、何かあったのかと思いましたよ」
 テメノスは肩をすくめた。初の異端審問官であった前任者ロイは幼なじみだ。テメノスと同じ拾われ子で、性格は正反対だったが馬が合った。
 回想を脱したテメノスはすっとあごを上げ、聖火の灯る広場を大聖堂の壁越しに見透かす。
「今回も記者団が外に待機しているでしょう。わざわざ餌になることはありません」
 教皇は少し考えるそぶりをした後、ふっと笑った。
「ならばテメノス、私の部屋に来ないか。異端審問官就任のお祝いをしよう」
 テメノスは目を瞬いた。教皇の部屋といえば文字通り寝起きする場所である。宿舎で暮らす下っ端と違って教皇だけは特別だった。テメノスも教皇に拾われたばかりの頃はよく部屋を訪ねたけれど、成人以後はほとんど足を踏み入れていない。
「お祝い、というほどでもないのでは」
 テメノスはどこかくすぐったい響きの言葉を反芻する。
「だがこういう時でないとゆっくり話せんだろう。お茶を淹れよう。茶葉は部屋にあるから、お湯をもらってきてくれないか」
「……分かりました」
 やや強引に話を進められたが、悪い気分ではなかった。年齢を重ねるにつれて教皇と過ごす時間が減ったことは確かだ。
(それに……教皇にはどうしても聞いておきたいことがある)
 一旦教皇と別れたテメノスは神官用の炊事場に向かうと、理由を話して水差しに湯をもらい、教皇の部屋の扉を叩いた。出てきた教皇が自らお茶を淹れるとのたまったので、素直にお湯を渡す。
 入ってすぐの場所に応接セットがあり、そこに腰掛けて待つことにした。断罪の杖は壁に立てかける。思ったよりも長さがあるから今後持ち運びに苦労しそうだな、とぼんやり考えた。
 教皇は部屋の奥で手早くお茶を準備した。腰が曲がりはじめてもおかしくない年齢だが、幸いなことにまだまだ元気そうだ。彼は危なげなくティーセットをお盆で運び、ローテーブルに置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 テメノスは遠慮なくカップを手にとり、湯気を肌に感じながらお茶をすする。教皇は真向かいに腰掛けた。
「最近調子はどうだね」
「ぼちぼちです。今後とも暇であることを願いたいですね。忙しくなるべきではない職ですから」
「そうだな」
 苦笑した教皇がカップを持ち上げた拍子に、会話が途切れた。その隙を見てテメノスは身を乗り出す。
「教皇。そろそろロイについて話していただけませんか」
 できるだけ感情を抑えたつもりが、声が深刻味を帯びたのが分かった。教皇は顔色を変えず、のんびりとお茶を飲んでカップを置いた。
 今やテメノスはロイと同じ異端審問官となった。つまり真実を知る権利を得たのだ、と彼は考えていた。
 ――数ヶ月前、幼なじみが姿を消した。ロイは「教会は何かを隠している」という意味深な言葉を残し、ある日突然いなくなってしまった。ロイの持っていた断罪の杖も行方不明になり、今テメノスが使っているのは新たにあつらえたものだ。
 最後に言葉をかわしたあの日、テメノスは夜中に自室で寝ていたところをロイに起こされた。寝ぼけた頭でも分かるほど、ロイの様子はおかしかった。どうしてあの時引き止めなかったのか、という後悔は確かにテメノスの中にある。だが、今は何よりも真実を知りたかった。
 姿を消す前のロイは教皇とともに何かを熱心に調べていた。今のテメノスはその秘密を共有できる立場になった、はずだった。
 教皇は黙って立ち上がり、部屋の隅に置かれた机のそばに行った。その上に置かれた聖典を開く。
「すまないが、今はまだその時ではない」
 背中越しに発せられたのは拒絶の言葉だった。テメノスはカップの水面に映る自分を見つめた。硬い表情をしている。
「……分かりました」
 そう答えるしかなかった。
 教皇はテメノスよりもはるかに多くの情報を持っている。ならばその判断は正しいのだろう。もしかすると、テメノスを何らかの危険に巻き込むまいとしているのかもしれない。
 その気持ちを考えれば、これ以上踏み込むことはできなかった。無論、異端審問官の能力を悪用して無理やり「暴く」ことなど論外だ。
 教皇がこちらを振り返る。その瞳には静かな光が宿っていた。
「だが、いずれ確証を得た時は、必ず最初にそなたに話そう」
「お願いしますよ。……私、まわりがあらかた死んでから推理をはじめる探偵のことが気に食わないんです」
 近頃そんな小説を読みまして、とつぶやくと、教皇はほおを緩めた。それから徐々に真面目な顔に戻る。
「本当の異端とは心の奥に隠れているものだ。暴くのは苦労するだろう。だが……テメノス、そなたならばできると信じているよ」
「お任せください、教皇」
 テメノスはそっと胸に片手を置いた。
 まわりのすべてを疑う性質は、どこぞのお人好しのために身に着けたものだ。異端審問官にはロイよりも自分の方がずっと向いている。今後は思う存分断罪の杖を振るってやろう――いつか真実を解き明かす日まで。

 あの日、教皇は自分に何を話そうとしたのだろう。
 テメノスはまぶたを開けた。あごを上げると大聖堂の聖窓が正面に映る。その窓は一度内側から破壊された後、時間をかけて修理されたものだ。今でも目を凝らせば足元に破片が散っているような気がした。
 窓から差し込むのは太陽の光ではなく月明かりだ。清浄な光を受け、床に置いた断罪の杖の先端がきらりと光る。
 身廊の椅子に座ってじっとそれを眺めながら、テメノスは聖窓が割れた日に思いを馳せた。あの日、教皇は「大事な話がある」と言ってテメノスを夜に呼び出した。しかし。
「……さすがに時間が経ちすぎたか」
 以前は少し集中すれば、殺される直前の教皇の行動をくっきりと思い浮かべられたのに、今はもう頭の中でうまく像を結ばなかった。
 ――異端審問官としてテメノスが初めてまともに取り扱ったのは教皇暗殺事件だった。その真相を暴くため旅に出て、最終的に聖堂機関の長カルディナこそが異端であると見抜き、彼女を捕縛することこそ叶わなかったものの、証拠を山ほど携えて再び大聖堂に戻ってきた。
 カルディナの麾下にあり、不正を働いていた聖堂騎士たちについては、ストームヘイルで裁判がはじまったところだ。テメノスは立件のためにできる限りの証拠を提出した。
 しかし、まだ明らかになっていないことはいくつもある。力を求めるカルディナに間違った儀式を教えた人物もその一つだ。テメノスは「散歩」がてら異端審問官としての仕事を続けることにした。
 次なる目的地はストームヘイル、そしてはるか西大陸のティンバーレイン王国だ。テメノスの旅に最後まで協力してくれた薬師キャスティに力を貸すため、彼を含めた八人はそこに赴く。もしかすると、それが今のメンバーにおける最後の旅路になるかもしれなかった。
 カルディナを討ってからしばらく教会の雑事に追われていたテメノスは、ちょうど今日の昼間に麓のフレイムチャーチの村で仲間たちと合流した。そして彼らと一緒に夕食をとった後、また山を登って大聖堂に引き返してきた。テメノスの住まいは大聖堂のそばの宿舎である。出発は明日の予定なので、朝一番に下山しなくてはならない。
 あまり余裕のないスケジュールの中わざわざ大聖堂に来たのは、こうして考えごとに集中するためだ。テメノスは夜の警備を担当する聖堂騎士に断りを入れて、消灯時間の過ぎた大聖堂を訪れた。今やこの建物には教皇もアルパテスもいないため、本当に一人きりである。
 近頃は裁判の準備でゆっくり考えごとをする時間もなかった。ここなら落ち着けるかと思ったが、結局あまり集中できていない。目を閉じると、取り戻せない過去の光景ばかりが胸に蘇った。
 それでも、もう一度だけ挑戦すべくまぶたを伏せて――
「テメノス……心と身体はつながってるの。心に蓋をして無理すると、必ず体にしわ寄せがいくわ。だから、もう少し悼む時間を持っていいのよ?」
 突然耳の奥に蘇った台詞にうろたえ、彼は何度か瞬きした。
 あれは港町カナルブラインで聞いた言葉だった。事件の調査を急ぐテメノスに薬師キャスティが追いすがり、そう告げたのだ。
 その台詞は、テメノスの足を止めるのに十分すぎるほど心に響いた。当時のキャスティは自分が薬師だったこと以外ほとんど何も覚えていない状態だったのに、あそこまで正確にテメノスの心理を見抜くとは。
(もう大丈夫です、キャスティ。こうして考え続けるのは故人を悼んでいる証拠でしょう?)
 つい心の中で言い訳をしてしまい、一人で苦笑する。そうだ、ここでしっかり休まなければ明日仲間たちに迷惑をかける。もう潮時だろう。
 宿舎に戻ろうと決めて立ち上がり、杖を手にとって大聖堂の玄関口へと引き返す。
 入口の前に立った時、外側からこつこつと大扉が叩かれた。
(……誰だろう)
 思わず身構える。こんな時間に大聖堂を訪ねる者が自分以外にいるとは思えない。戸締まりはやっておくから、と見張りの聖堂騎士を帰してしまったのは早計だったか。
 テメノスは警戒しながらゆっくりと扉に近づいていった。
「テメノス審問官、私だ――オルト・エッジワースだ」
 聞き覚えのある声にはっとして、扉の取っ手を掴んだ。
 外に立っていたのは、癖のある黒髪を肩まで伸ばした男だ。夜だというのに騎士の正装たる鎧に身を包んでいる。テメノスもきっちり神官服を着込んでいるのでおあいこだが。
 騎士オルトとはトト・ハハ島の遺跡で別れたきりだった。最後に会った時の彼は大怪我をしていたが、その後無事に回復したという噂だけは聞いていた。顔を合わせるのは久々である。
「おや、君も仕事に復帰していたのですね。どうしてここに?」
「それは……中で話さないか」
 オルトはちらりと背後を見て、声をひそめる。人目を気にしているのか。テメノスは「どうぞ」と言って大聖堂に招いた。扉に鍵をかけ、身廊まで行く必要はないだろうと思って廊下のベンチに腰掛ける。
 その横に座ったオルトは律儀に黙礼した。
「遺跡で怪我を手当てしてもらい、感謝している。あれがなければ私は今ここにいなかった。それと、カルディナを討ってくれたことも……」
 彼は苦しげに顔をしかめ、言葉尻をしぼませた。カルディナの親衛隊だった彼は、遺跡で豹変した彼女に斬られたのだった。その直後、テメノスたちが追いついた時はそんな上司に対して敬称をつけて呼んでいたが、さすがにやめたらしい。
 テメノスは首を振る。
「君を手当てしたのはキャスティです。それに、カルディナを裁判に引きずり出せなかったのは私の落ち度でもあります」
 暗黒とやらの力に飲まれて変貌し、自我を失った機関長を屠ることしかできなかった。本来ならばその前に捕らえるべきだったのだ。そう告げると、オルトは眉根を寄せた。
「それはそうだが……。ああ、薬師殿には麓で会ったので礼を伝えておいた。あなたがここにいることは彼女から聞いたんだ」
「そうですか」
 ということは、オルトはテメノス自身に用があるのだろう。腕組みして背もたれに体重をかける。
「用件は手早くお願いします。私たちは明日発つので」
「そうらしいな。なら手短に言おう。聖堂機関本部で、建築士ヴァドスの調書が見つかったんだ」
「……ほう」
 テメノスは低く声を絞り出す。
 建築士ヴァドスは、二年前にこの大聖堂の改修工事を請け負った男だ。教皇暗殺の実行犯であり、裏でカルディナと共謀していた。
 カナルブラインにて、テメノスは聖堂騎士クリックと協力してヴァドスを捕らえた。その後、ヴァドスはストームヘイルの聖堂機関本部に護送された。本来ならそこで尋問が行われるはずだったが、本部には容疑者が運び込まれた記録さえ残されておらず、挙げ句の果てにヴァドスは墓地で死体となって見つかったのだ。
 オルトは話を続ける。
「見つかった調書には、ヴァドスにはカルディナとは別の協力者がいたと記されていた。私はこのことをあなたに知らせ、くわしい調査を行うためクレストランドに来たんだ」
 説明を聴きながら、テメノスはあごをなでてじっと考え込む。脳裏に雪にまみれたヴァドスの死体が蘇り――
「テメノス審問官……おい、聞いているか!」
 うるさい声に邪魔された。
「なんですか。集中させてくださいよ」
「急に動かなくなるから、目を開けたまま寝たのかと思ったぞ……」
 オルトは呆れた様子だった。そういえばクリックも似たような反応をしていたものだ。テメノスは思考の水面に入るのを諦めて口を開いた。
「つまり、建築士ヴァドスに対する審問は実際にストームヘイルで行われていて、そこで彼が協力者とやらの存在を吐いた、と言いたいんですね」
「ああ、そうだ」
「それはおかしいでしょう」
 断言すると、オルトがむっと唇を曲げる。真面目くさった騎士の表情が初めて崩れた。
「……どこがだ? ヴァドスの協力者が本当に存在するか、疑っているのか」
「そもそも隠された調書が見つかったこと自体がおかしいんです。カルディナとヴァドスが炎を守る一族――カル族の生き残りだったことは君も知っていますね」
「ああ。手に文様があるのだったか」
 二人が同じ一族であったことは、西大陸のワイルドランド地方にある落日の遺跡――カル遺跡で見つけたカルディナの手記に書かれていた。
「カルディナはヴァドスと密接につながっていた。だから彼女は教皇を殺した実行犯のヴァドスをカナルブラインで保護し、捕縛した記録を消して、自分の本拠地であるストームヘイルまで連れてきたんです。カルディナがヴァドスを審問する必要はどこにもないでしょう」
「……確かに。待て、ならヴァドスはどうして――」
 オルトがはっとしたように口ごもり、テメノスは鈍い痛みを感じてこめかみを指で押さえる。今さら、重大な見落としに気づいてしまったのだ。
「そう、今までヴァドスは口封じのため聖堂騎士に殺されたと疑っていましたが……同じ一族の唯一の生き残りに対して、カルディナがそんなことをするでしょうか。カルディナの手記には『ヴァドスは信頼できる』とまで書いてありましたから」
 カルディナが得体の知れない暗黒とやらにすがってまで力を求めたのは、一族の無念を晴らすためだ。仲間意識の強い彼女が、同族のヴァドスを手に掛けるとは到底考えられない。
 先ほどまでの散漫な集中力が嘘のように、テメノスの思考は忙しく回転していた。彼は戸惑っているオルトに質問する。
「君はカルディナの太刀筋を覚えていますね。ヴァドスの体にあった刀傷はどうでしたか」
 騎士は小手に覆われた手のひらをじっと見つめた。雪の中で回収した死体を思い出しているのだろう。
「少なくとも、カルディナのものではなかった……。そうか、聖堂騎士がヴァドスを殺したとは限らないんだな」
「まあ、部下のクバリーあたりが下手人かもしれませんが」
 とテメノスは付け加える。オルトが混乱したようにかぶりを振った。
「なら、今回見つかった調書は……一体なんなんだ?」
 それこそが疑問の根幹だ。テメノスは額に指をあてる。
「もし調書が本物なら、協力者の存在を知ったカルディナがヴァドスに裏切られたと思って彼を処分した、ということになるでしょうね。偽物なら……捜査を撹乱するために何者かが用意したのでは。
 その調書、今持っていないんですか? 何かヒントが得られるかもしれません」
 ずいと手を差し出せば、オルトは頭を抱える。
「重要な証拠として裁判所に提出済みだ……」
「まったく。教育がなってませんねえ」
 テメノスは口を尖らせながら、いつも持ち歩いている鞄を漁って紙束を取り出した。
「重要な証拠なら、このくらいはしないとね」
 出された書類に目を走らせ、オルトは息を呑んだ。実に期待通りの反応である。
「これは……カルディナの手記か!? これこそ無二の証拠だろう、何故あなたが持っているんだ」
「実物はもちろん提出しましたよ。写しを所持することは違法でも何でもありません」
 テメノスがしれっと言うと、オルトは言葉に詰まった。やがて、何かに気づいたように激しく目を瞬く。
「もしかして、この筆跡が調書と同じか判断しろと言いたいのか?」
「いえ、これは私がカルディナの手記を写したものなので、筆跡は違いますよ。そもそも調書は下っ端が書くものでしょう」
 テメノスは説明しながら、「パルテティオの会社あたりがいつか本を写し取って複製する機械を発明してくれないものか」と頭の片隅で夢想していた。
「とにかく次からは気をつけてくださいね。では、行きますか」
 書類をしまったテメノスは、すっとベンチから立ち上がる。
「は?」
 オルトが間の抜けた顔で見上げてきた。テメノスはやれやれという気分で杖を床につく。
「ですから、調べに行くんです。ちょうどヴァドスの手がけた建造物がここにあります。協力者とやらの痕跡が残っている可能性もあるでしょう」
「地下通路か……!」
 みるみる騎士の表情が晴れていく。ヴァドスが教皇暗殺の際に使った道が大聖堂の地下にあることは彼も知っているようだ。もともとテメノスはいずれあの地下をじっくり調べるつもりだったが、カルディナまわりの捜査と比べて優先順位は低かった。だが、こうなれば話は別だ。
「時間がありません。今晩中に片付けますよ、オルト君」
 返事も待たずにさっさと歩き出せば、オルトは慌てて後を追ってきた。鎧の擦れる音が近づき、やがて隣に並ぶ。
 テメノスが迷いなく目指す先は、大聖堂の廊下の突き当たりにある部屋だ。扉を開けると、薄暗い中には木箱やふくらんだ革袋が雑然と積まれていた。
「倉庫か」
「この奥に例の通路があります」
 邪魔な荷物をオルトに動かしてもらい、部屋の隅にたどり着く。そこの床に四角い蓋がはめ込まれ、開ければ地下へと続くはしごが伸びていた。以前クリックとともに通った通路に反対側から進入するわけである。
 はしごに足をかけようとすると、オルトに止められた。
「私が先に降りる。安全を確認したら合図しよう」
「……分かりました」
 旅を経て相応に戦いの経験を積んだテメノスは、自分が先陣を切る役割に向いていないことをよく分かっていた。こういう時はエキスパートに任せるべきだ。前回地下を通り抜けた際は小さな魔物と遭遇しただけだったが、警戒するに越したことはない。
 しばらく倉庫の片隅で待っていると、はしごの下がぼんやりと明るくなった。オルトがランタンに火を灯したらしい。それを合図にテメノスも降りていった。
 地下に着くとオルトからランタンを受け取り、前の暗がりを照らした。近くで水音がする。通路のすぐそばがもう水路なのだ。流れの方向は大聖堂が上流、前回使った入口方面が下流である。
 二人は一本道を歩きはじめた。足場幅は十分に広く、大人二人が横に並べる。近くに魔物がいないことを確認したテメノスは、壁や床に気を配りながら口を開いた。
「このあたりは地下水が豊富でして、水道自体は相当昔に作られたようです。それが老朽化したためヴァドスが整備しました。あの時はずいぶん手間を掛けて地下を掘っていましたね……。もともと迷路のようなつくりなので、教会には知らせていない入口や、もしかすると隠し部屋を仕込むことも容易だったでしょう」
「隠し部屋か。やつのアジトというわけか?」
「ええ、ヴァドスは大聖堂の門前町に家を借りていましたが、そこにはほとんどものがありませんでした。図面の控えさえなかったんですよ。ですから、そういった書類をどこかに隠していた可能性があります」
 なるほど、と相槌を打ったオルトは油断なくあたりを睥睨し、腰に佩いた剣を鳴らして足を運ぶ。
「それにしても大きな施設だな」
「ええ、大聖堂の東に山があるでしょう? あれはここを掘った土でできたんですよ」
 すると、オルトは胡乱な目を向けてきた。
「……さすがに嘘だろう」
「おや、残念。クリック君は信じたのに」
 テメノスが付け加えれば、オルトは「あいつ……」とつぶやいて自分の髪をくしゃりと乱す。その拍子に何か気がついたのか、斜め前方を指さした。
「あれは……聖火神の像じゃないか? なんでこんな場所に」
 通路の途中に階段があり、その先が円形の広場になっていた。中央には杖を持った老神の石像がそびえている。テメノスは目をすがめて古びた似姿を見つめた。
「今いるのは、かつて使われていた地下礼拝堂のあたりです。ヴァドスは水道だけ直して、それ以外は放置したようですね」
 テメノスが近寄って手の甲でこつこつ像を叩くと、石の粉が散る。数十年単位で捨て置かれたせいか、風雨のない地下といえどこの有様だった。
「隠し部屋の可能性は低いですが、このあたりも調べておきますか」
 二人は広場をじっくり見て回った。折れた柱や埃を被った床にもランタンを近づけてよく観察したが、これといって怪しいものは見つからない。そして魔物の影もなかった。それでも警戒を崩さないオルトは、いつでも剣を抜ける態勢を整えつつ、不意に尋ねた。
「そういえば、あなたは二度ヴァドスを審問したんだろう? その時に何か情報は得られなかったのか」
 鋭い指摘だった。テメノスは杖を握り直し、軽く息をつく。
「……私の審問がどういうものか、知っていますか?」
「なんとなくだが。魔法の一種だと聞いた」
「そのとおり、相手の心の奥に入りこむ術です」
 テメノスは立ち止まり、じっとオルトの目を見つめる。騎士はたじろいだ。彼なら簡単に暴けそうだ、と経験が告げていた。
 果てなく続く水面と、月のような明かりが差す暗い空間を思い出す。そこで相手の精神そのものと対峙するのが、異端審問官になる際に教皇から教わった「審問」と呼ばれる術である。
「気をつけないとこちらの心もさらけ出す羽目になります。審問ではその時必要な情報を聞き出すだけで精一杯ですよ。だいたい、相手の持つ情報をすべて開示されたら、私の頭では処理しきれないでしょう」
 加えて、あの審問には明確な弱点がある。相手に強固な意志もしくは特別な術による備えがあれば、黙秘したり虚偽を吐いたりすることが可能なのだ。テメノスは今までそういう精神防護を施した者に当たったことはなかったが、「審問ですら確実ではない」ことは常に肝に銘じていた。
 実際に審問された経験のないオルトはピンとこないのだろう、曖昧な顔でうなずいている。
「ですから、知り合いには絶対に使いません。私が知りたくないことも、私に知られたくないこともあるでしょうからね」
 テメノスがきっぱり言うと、オルトは肩の力を緩めて息を吐く。
「……意外だな。無理やり暴くのかと思っていた」
「なかなか失礼ですねえ君は」
「率直な感想と言ってくれ……待て」
 不意に騎士の声が真剣味を帯びた。テメノスが口をつぐむと、オルトは剣の柄に手をかける。
「誰かいる」
 テメノスは黙ってランタンを消した。二人で礼拝堂の朽ちた柱の影に隠れる。
 礼拝堂の外、階段を下った通路の方にちらちらと光が見えた。オルトの言った通り、誰かがいる。その光はだんだんこちらに近づいてきた。
 おそらく相手は三人。何か会話しているがよく聞こえない。先にこちらが気づいて身を潜められたのは幸いだった。
「こんな場所に何の用だ……?」
 オルトが眉間にしわを寄せてつぶやく。テメノスも同じ疑問を抱いていた。相手はまさか大聖堂側から地下に侵入したわけではないだろう。つまり、かつてテメノスが使用した反対側の入口か、もしくは教会が把握していないルートがあるのかもしれない。
 そんなものを知っているのはヴァドスの関係者だけだ。テメノスはいっそう身を低くする。
(オルト君の見つけた調書の真偽は別として、もし本当にヴァドスに協力者がいるなら……)
 何らかの証拠を消しに来た、という可能性はないだろうか。
「あいつら、何かを探しているな」
 オルトがぼそりと言う。そうしている間にも、侵入者たちは二人が潜伏する場所にますます接近してきた。
 その時。テメノスは、少し離れた床に侵入者たちの持つ明かりがきらりと反射するのを目撃した。
 考えるよりも早く、自分の鞄をその場に置いて隠れ場所から飛び出す。
「おい、テメノス!?」
 オルトの困惑した声を背に受けて走った。「何者だ!」と叫んだ侵入者がランタンを向ける。テメノスは姿を捕捉されるのも構わず床にしゃがみ、「それ」を拾った。
 汚れている上に、薄暗くてどういう用途のものかよく分からない。手のひらに収まるサイズの、金属製のつるつるしたものだ。テメノスはそれを強く握り込んだ。
 彼が立ち上がる前に侵入者の一人が駆けてきて、剣を大きく振りかぶる。
「はっ」
 そこにオルトが割り込み、かざした盾で攻撃を受けた。耳障りな金属音が鳴る。それが開戦の合図となった。
 テメノスは素早く腰を上げ、オルトに前を任せてじりじりと後ずさりながら詠唱した。
「光よ!」
 侵入者の足元から垂直に光柱が飛び出した。相手は慌てたように飛び退いて距離を取る。
 黒いフードで顔を隠した三人の男は、横に並んでそれぞれ武器を構え、じっとテメノスを見つめた。彼らは明らかに今拾ったものを注視していた。テメノスは負けじとにらみ返し、懐を探ってどきりとする。
(しまった、ライセンスを持っていない……!)
 この場は神官の技だけで戦わなければ。オルトに目配せすると、騎士は視線だけでうなずき、そのまま長剣を水平に構えて徐々に相手との距離を詰めていく。
 テメノスは支援に徹するためさらに後退した。その刹那、不意に鈍い音とともに背中に強い衝撃が走った。
「くっ……」
 肺から空気が出る。何かにぶつかったわけではなく、殴られたのだ。痛みをこらえて振り返れば、そこには弓を持った四人目のフードの男がいた。仲間が潜伏していたのか!
「テメノス!」
 切迫したオルトの声が聞こえる。だが、三人を相手取る彼がこちらに加勢するのは難しいだろう。テメノスはよろめきながらも例の拾い物を懐に入れる。勘でしかないが、これを相手に渡してはならない。
 背中がじんじん痛むのは、四人目の敵があの弓で思い切り叩いたからだろう。矢を使わなかったのは暗所で味方に当たる危険を避けたためか、と考えるうちに、テメノスと対峙する男が腰を低く落とした。
 体当たりを察知したテメノスは相手の動きを見て体をひねった。が、先ほどのダメージでバランスがうまくとれず、足がもつれた。必死に体勢を整えようとすると、今度はがくりと視界が低くなる。何が何やら分からぬまま、手から断罪の杖が離れた。
「しまっ……!」
 水しぶきが上がった。彼の体は水道に落下したのだ。先ほどまで立っていたのは水路に張り出した足場であり、どうやらそれが老朽化していたために崩れ、テメノスもろとも落ちたらしい。
 足のつかない流水に放り出された彼は、急いで顔を水面に上げる。すると足場の上に陣取る黒フードの男が、無慈悲にも矢じりをこちらを向けていた。
(まずい!)
 慌てて潜水する。直後、すぐそばの水中に矢が走っていくのが見えた。
 今テメノスが岸に上がっても狙撃されるだけだ。ただ一人陸に残ったオルトが心配だが、敵はテメノスの拾った物を狙っているはず。ならばこちらに注意を引きつけてオルトの負担を軽くしよう。
 着衣のまま暗い水底へ潜り、水道の流れに乗った。いくつか矢が降ってきたがそれだけで、幸い相手は泳いでまで追ってこなかった。
 しばらく水の中を進んでから息継ぎのために顔を出すと、あたりは真っ暗だった。流されすぎたかもしれない。しかも見た目よりずっと水の流れが速く、自力で上流に遡るのは難しかった。
 このままでは水中で体力が尽きる。オルトの援護に行くどころか自分が救助される側になりかねなかった。焦って周囲を見回すと、壁際にぼんやりと光が見えた。
 罠かと思いつつ、そこを目指して泳ぐ。岸があった。全力で這い上がる。
「はあ……」
 濡れ鼠のまま床に座り込んで荒く息を吐く。真っ暗な中、ごうごうと水音だけがこだましていた。戦闘音は聞こえない。
 先ほどの光は何かと思えば、壁に円を描くように夜光塗料が塗られていた。つまり、明らかに人の手が入っている。だが調べようにも明かりをつけると敵に見つかるかもしれない。ひとまず息を整えることに集中した。
(落ち着いたらオルト君を助けにいかなければ)
 いまテメノスがいる足場は、先ほど戦っていた地下礼拝堂とは水道を挟んで反対側の岸だ。どうにかして水を渡れば、通路沿いに礼拝堂まで戻れるだろう。それには相応の体力が必要である。悔しいが、一時休息するしかなかった。
 じっとしているとだんだん体が冷えてきた。もう服は脱いでしまおうか、と上着に手をかけた時、愕然とする。
 礼拝堂で拾った例のものがない。まさか水の中で落としたのか。
 思わず唇を噛む。あれはヴァドスの協力者かもしれない男たちが探していたものだ。事件の解明に役立つ可能性が高かった。まさかなくしてしまうとは!
 やがて悔恨の波が引くと、「あの男たちもそれが狙いでテメノスを捨て置いたのかもしれない」という推測が浮かんだ。すなわち、侵入者はあれを回収するためではなく、隠滅するためにやってきたのだ。
 じわじわとこみ上げる喪失感のせいで、テメノスは冷気に体力を奪われながらもなかなか動けなかった。
 ――その時、遠くで水音がした。水をかくような一定間隔の音が、下流から近づいてくる。
(舟か……?)
 以前この通路を通った時、大聖堂と反対の入口付近に一艘の小舟が係留してあったことを思い出す。
 音とともに水面を照らす光がこちらに迫っていた。テメノスは身をこわばらせて壁を見る。舟が迷わずこちらを目指しているのは夜光塗料のせいか。ここで休憩を選んだのはミスだったかもしれない。
 とにかく一矢報いらなければ。テメノスは光をにらみながら詠唱をはじめた。
 水の上を滑る光が、ついに彼の全身を照らす。すかさず魔力を開放しようとした瞬間、
「テメノス、良かったわ!」
 聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。安堵に満ちた台詞を聞き、テメノスは驚いて目をこらす。
「まさか、キャスティ……!?」

 

戻る