ゆく河の流れは絶えずして

(ザクロの葉がもうほとんどないわね……)
 フレイムチャーチの道具屋で薬の材料を仕入れたキャスティは、はたと気づいた。
 厄介なことにザクロは希少なため、ブドウやプラムと違って果実も葉も店では売っていない。こうなれば、自生しているものをどこかで見つけるか、誰かから買い取るか、魔物が持っているものを狙うしかなかった。今度、パルテティオかソローネあたりに頼んでみよう。
「はいよ。ずいぶんたくさん買うんだね」
 カウンターにこんもりと材料を積み上げ、道具屋の店主が笑った。キャスティはまた「しまった」と思う。数が多すぎた。つい癖で八人分買ってしまったのだ。
(……まあ、そのうち使うわよね。少し荷物が重くなるだけよ)
「在庫があって助かったわ。ありがとう」
 店主に礼を言い、薬の材料を紙袋に入れたキャスティはカウンターから店の入口を振り返って、なんとなく立ち止まる。
 そういえば、昔ここで神官テメノスと出会ったのだった。当時の彼女は開口一番「自分の服装を知っているか」と尋ねた。まだ記憶の手がかりがほとんどない頃だった。あの会話もずいぶん昔のことのように思える。
 店を出ると、少し肌寒い風がほおに触れた。山の頂上にはいつかと変わらぬ白亜の大聖堂がそびえている。今、あそこは大混乱に陥っているはずだった。麓の村もどこか落ち着きがないのはそのせいだろう。
 ――聖火教会の一組織である聖堂機関の長たちが、教皇や麾下の騎士を殺害した。その真実を異端審問官のテメノスが暴き、白日のもとに晒した。新聞の一面に載るような大事件であり、聖堂機関の面目は丸つぶれだった。
 テメノスは教会に戻って後始末をすると言い、旅の終着点となったナ・ナシの里で一行と別れた。それからしばらく経って、キャスティたちは彼から手紙でこの村に呼び出されたのだ。
(きっと別れの挨拶になるわよね……)
 キャスティは胸元をぎゅっとつかむ。テメノスは今最も大聖堂に必要とされている人物に違いない。だから覚悟はしていた。
 その時、にぎやかな靴音が近づいてきた。音の主は黄色いコートをなびかせた商人だ。後ろには学者もいる。一見正反対に見える彼らだが、意外と馬が合うのかよく一緒に行動していた。
「おっキャスティ、買い出しありがとさん。荷物持とうか?」
 気のいいパルテティオが申し出る。キャスティは素直に紙袋を渡した。
「そうね、頼むわ。つい買いすぎちゃったの」
 パルテティオが受け取った袋を、横合いからオズバルドがひょいと持ち上げる。
「お前だって荷物があるだろう」
「へへ、助かるぜ」
 商談が成立したのかパルテティオは片腕に別の包みを持っていた。手元が軽くなった彼は首をかしげる。
「もしかして、ヒカリの分も買っちまったのか」
 図星を指され、キャスティは一瞬唇を閉ざす。
 剣士ヒカリがク国にて異母兄を打ち破り、王の座についたのはついこの間のことだ。まさかティンバーレインよりも先に彼の戴冠式を見ることになるとは思わなかった。キャスティにとって初めての仲間となった彼の晴れ姿は、今も目に焼き付いている。その後、ヒカリは仲間の輪から外れてク国で新たな生活を送っていた。
 だが、彼を除けば皆が当たり前のように旅を続けている。それがキャスティには不思議だった。すでに彼女以外は全員、当初の旅の目的を達成していた。それに、彼らのほとんどは帰るべき場所を持っている。だから目的が一段落すれば仲間たちは順次故郷に帰るか、自分の旅路に踏み出していくのだ、とキャスティは勝手に思い込んでいた。
 しかし、行く末が気になってこちらから声をかけたソローネは別として、スターになったアグネアもまだまだ世界をめぐりたいようだし、オーシュットは村を守るための修行だと言ってついてきた。
 一拍おいて、キャスティは苦笑する。
「それと、テメノスの分もね。あまり買いすぎると整頓が大変なのに……」
 男性陣は何か言いたそうに顔を見合わせた。
 キャスティはふと思い立ち、以前から気になっていたことを尋ねる。
「あのね、パルテティオ……本当に私たちについてきてよかったの?」
 世界を股にかける大商人は目を丸くした。
「え? 前から言ってんだろ、本当に仕事がやばくなったら一回抜けるって。でもうちの会社もまだはじまったばっかりだし、俺があちこち回って商談しねーと。
 とにかく、ちゃんと連絡はしてる。会社は親父やロックのおやっさんに任せときゃ大丈夫だって」
「……そうよね」
 パルテティオはぴんと指で銀コインを弾いてみせる。その横でオズバルドがまぶたを伏せた。
「俺にも同じことを言うつもりか?」
「いいえ。ただ、あなたに関しては早く娘さんに元気な顔を見せてあげればいいのに、と思っているけど」
「む……」オズバルドはますますしかめっ面になった。
「痛えところを突かれたな、旦那」
 パルテティオはひとしきり笑ってから、ぽんとキャスティの肩を叩いた。
「元気出せよ。あんたがそんなだと俺たちもしまらねえぜ」
 彼女はひとつ瞬きをする。
「私、元気がないのかしら?」
「近頃の君はそう見えるな」
 オズバルドからも言われてしまった。彼女は胸に手を当てて自らの心の裡を覗き込む。
「ティンバーレインの戴冠式が近づいてきて、緊張しているのかもしれないわ。確かに私がこんな調子じゃだめね」
 気合を入れるため、自分のほおを叩いて笑った。パルテティオがぐっと親指を立てる。
「そういうことさ。じゃ、俺たち宿に荷物置いてくるな」
「頼んだわ。そうだ、今度ザクロの葉を見つけたら買っておいてくれる? 代金は後で払うから」
「りょーかい」
 二人の背中を見送り、キャスティは一息ついた。そのタイミングで村の高台から教会の鐘が鳴り響く。
(少し様子を見ておこうかしら)
 テメノスは手紙に「時間が空いたら直接宿に行く」と書いていた。なのでおそらく大聖堂にいるのだろうが、麓の教会でそれとなく彼の居所を聞き出してもいいかもしれない。
 階段を上り、教会の大扉の前に立つ。中からオルガンの音が聞こえた。そっと扉を開ければ、穏やかなメロディが鳴り響く中、子どもたちがはしゃいで走り回っていた。同席した親に「ちゃんと歌いなさい」と怒られている。
 キャスティは音を立てずに笑った。少なくともこの教会はいつもどおりのようだ。聖堂機関をめぐるごたごたの中、人々に不安を与えないよう、あえて普段の行事をこなしているのかもしれない。
 礼拝堂を見回したキャスティは知った顔がないことを確かめてから、なんとなく丸椅子に腰掛ける。
「どうかされましたか?」
 お祈りもせずに座っていたせいか、脇から声をかけられた。優しげな顔立ちをした女性の神官だ。深緑の髪がベールからこぼれている。
「ええと……異端審問官の方はこちらにはいませんよね。知り合いなんですが」
 つい、分かりきっていることを尋ねてしまった。すると神官が目を輝かせた。
「あなた、もしかしてテメノスさんと一緒に旅をされていた方ですか。以前この村で暴徒を捕まえてくださった……」
「ええ、そうです」
 キャスティは驚いた。あの時は暗い中でのやりとりだったのに、よく覚えていたものだ。神官はほほえむ。
「テメノスさんなら山の上の大聖堂にいますよ。お忙しいようで、私たちもなかなか会えませんが。旅のお土産話を聞かせてほしいのに……」
「そうよね、忙しいわよね」
 キャスティは一人で納得する。神官が自然な動作でその横の椅子に座った。
「私はミントと申します。ふふ、良ければあなたたちの旅のお話を聞かせてもらえませんか」
 柔らかな笑顔に目が惹きつけられる。キャスティはうなずいた。
「それはもちろん」
 ミントがこういう質問をするということは、テメノスは同僚相手にもあまり自分の話をしないのかもしれない。聖堂機関に関することは避けて、なんとか当たり障りのない話題を選ばなければ。
 歌の邪魔をしたくないので外に出ませんか、とミントに誘われた。後に従うと、教会の前のささやかな広場にベンチがあり、二人で腰掛ける。
「私もあまりくわしくはないけれど……」
 キャスティは旅の中でテメノスがどういう役割を果たしたのかを説明した。神官のライセンスを取得した時は、彼から魔法を教わったものだ。こうして振り返ると、やはり彼の存在は大きかった。
 あまり真面目な話ばかりでは退屈だろうと、他の仲間から聞いたエピソードも混ぜる。
「テメノスが楽しみにしていた赤ワインの瓶を、仲間の一人が割ってしまったの。でも、彼は真相が分かってスッキリしたから許した……と聞いたわ。彼にとっては謎が何よりの美酒みたい」
 ミントは微笑を浮かべて相槌を打った。
「そんなことがあったんですね。意外だわ……あの人、何を考えているか分からないから」
「え?」
 キャスティは瞠目する。
「本当に……分からないんですか?」
 思わず身を乗り出していた。ミントは目を細めて応じる。
「ええ。何を聞いても、すぐはぐらかされてしまうんです。普段から本心を話していないんじゃないかしら」
「……そんなことはないと思うけれど」
 キャスティはあごに手をやって考え込んだ。
 もしや言動が分かりにくいのだろうか? だが彼の推理は順序に沿って展開されるのでむしろ理解しやすい。また、年下の仲間たちと心底楽しそうに会話する様子も散見された。あれが本心でないとはとても考えられない。加えてキャスティは、胸の痛みをこらえる彼の顔も何度か見てきた。
 ミントは夢見心地のようにふわりと笑う。
「私、テメノスさんが何を考えているか知りたいわ。ねえ、あなたが教えてくれる?」
 吸い込まれるような瞳を見た瞬間、頭に鋭い痛みが走った。キャスティは額を押さえる。
「あら、どうしました?」
「ごめんなさい、頭が……」
 急に目の前が暗くなる。彼女は混乱した。これは記憶を取り戻す時と似て非なる症状だ。まるで暗闇の底に引きずり込まれるようだった。
 キャスティは強くまぶたをつむった。
 しばらくして少し痛みが薄れたので目を開ければ、彼女は何の脈絡もなく真っ暗闇の中にいた。
(え……?)
 ひとつの明かりも、自分の指先すらも見えない。遠くからごうごうと水音が聞こえるだけの空間だ。彼女は混乱して棒立ちになった。
 ――一人で旅路を歩みはじめた時も、こんな感覚があった。当時の彼女は細い細い流れをたどるように過去を探していた。そのうちに仲間ができて、記憶を取り戻し、気づけば彼女は押し流されてしまいそうなほど大きな奔流のただ中にいた。それが嫌だと思ったことはない。何故なら、キャスティが恐れるのはその反対だからだ。
 だんだん水音が消えていく。流れはいつか枯れ果てて、後には何も残らない――
「……ティ、キャスティ!」
 いきなり体を揺り動かされる。はっとして瞬きすると、色彩の洪水ともにまんまるな瞳が視界に飛び込んできた。
「オーシュット……」
 獣人はきょとんとして大耳を動かし、キャスティの肩から手を離す。
 暗闇から戻ってきたので、宙を舞う枯れ葉の色すら鮮やかに見えた。今のは夢だったのか。
「よ、良かった……! こんなところで寝てるから心配したべ」
 狩人の隣でアグネアが大げさに目をうるませた。どうしてそんな反応をするのだろうと思えば、先ほどまで前かがみだったはずの体は、今やぐったりとベンチの背もたれに寄りかかっていた。
「ええと……私、どうしちゃったのかしら」
 彼女は頭の痛みを感じてからしばらく意識を失っていたようだ。周囲を見回すが、ミントはいなくなっていた。オーシュットが鼻をひくつかせる。
「だいじょうぶ? なんかへんなにおいついてるよ。宿で休む?」
「そうした方がいいよ。顔色悪いよ、キャスティさん」
 頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。無理に動かすと後に引きずりそうだ。
「ありがとう。なんだか体が重くて……」
 背もたれからやっとのことで体を離せば、狩人が己を指差して言った。
「なら、わたしが宿まで運んであげようか!」
「オーシュットはちょっと体が小さいんじゃないかな……。よーし、あたしが男の人を呼んでくるね!」
 即決したアグネアは、衣の裾をなびかせてぱたぱたと宿の方へ駆けていく。フレイムチャーチは階段が多いので、転んでしまわないか心配だ。
 残ったオーシュットがひょいと隣に座った。キャスティは未だに顔を上げられず、目の端でそれを確認する。
「ね、なんかあったの? お腹へったとか? ほしにくなら新鮮なのがあるよ」
「ありがとう。今はそんな気分じゃないけど、後でお腹いっぱい食べたいわ」
「そっかー」
 と言ってオーシュットは取り出した肉にかぶりつく。キャスティは苦笑した。
 ミントは誰かを呼びに行ったのだろうか。だが戻ってくる気配はない。教会に行って確かめる気にもなれなかった。先ほどのやりとりは幻だったのかと思えてしまう。
 会話を反芻したキャスティは、つい隣に尋ねてみたくなった。
「ねえ、他人の考えていることって分からないものかしら」
 オーシュットはあっという間に食事を終えてから、首をひねる。
「難しいこと言うねーキャスティは。それ知ってどうしたいの?」
「どうしたい、というわけじゃないけど……」
 キャスティは、先ほどミントに「テメノスは何を考えているか分からない」と言われたことを説明した。
 普段はあどけなさすら漂う狩人の表情が、話を聞くうちにすっと透明になって、どこか大人びたものになる。
「わたしはそういうの考えたことなかったな。キャスティが『分かる』って思うなら、それでいいんじゃないの」
 そこで言葉を区切ったオーシュットはぽんと手を叩く。
「あ、でもキャスティだって、ちょっと分かってない時あるよねー」
「え?」
「ひかりんが何考えて自分ちに残ったか、とかさ」
 伸ばした足をぶらぶらさせた彼女は、唐突に砂漠の国の仲間に言及した。キャスティは目を瞬く。
「わたしはひかりんから直接聞いたわけじゃないけど……目が言ってたよ?」
「それってどういう――」
 口を開いた時、ごく近くで涼やかな音が鳴った。これは何度も聞いたことがある――神官の杖が立てる音だ。
「薬師のあなたが倒れるとは、らしくないですね」
 杖をついてやってきたのはテメノスだった。別れた時より少し顔色がよくなっただろうか、元気そうに見えた。
 キャスティは息を呑んで胸元で手を握る。オーシュットは驚いた様子もなく、尻尾を振った。
「あれ、テメノスだ。もしかしてアグねえと会った?」
 テメノスはやれやれと首を振る。
「峠を降りてきた私を見つけた時、駆け寄ろうとしたのか転んでしまって……今は宿で休んでいます」
「アグネアちゃんらしいわね……後で診てあげないと」キャスティは別の意味で頭が痛くなる。
「ああいうところはスターになっても変わりませんね」
 テメノスは苦笑を漏らした。オーシュットは勢いをつけてベンチから跳び下りる。
「そっか。みんな宿に集まるかんじ? わたし、アカラを呼んでくる。先行ってて!」
 返事をする暇もなく狩人は駆けていってしまった。本日、彼女の相棒は街道で狩りをしているので、迎えに行くのだろう。
 テメノスがこちらを振り返り、手を差し出す。
「では私たちも行きましょうか。立てますか?」
「ええ。一人で歩けるわ」
 と言ってベンチから腰を上げたが、すぐにふらついたので手を貸してもらった。なんとか両足で踏ん張って、「もう大丈夫よ」と言うと、テメノスは疑いのまなざしを向けながらも手を離した。
 杖の導きに従ってゆっくりと歩き出す。キャスティは神官の隣に並び、前を向いたまま尋ねた。
「大聖堂のお仕事はもう片付いたの?」
「ええ。ここまで大ごとになると、私の出る幕はほとんどないんですよね。あとは法の裁きに任せるだけです。いい加減新聞記者に張り付かれるのもうんざりしてきましたし、もう旅に復帰できますよ」
 キャスティはさらりと放たれた言葉にびっくりして、立ち止まった。
「……大聖堂に残らないの?」
 テメノスは困惑したようにあごをなでる。
「そのように言った覚えはないのですが……どうしてそう考えたのですか」
「だって、お仕事があるんでしょう」
 彼は「仕事だからやっているのだ」とよく言っていた。テメノスはうなずく。
「そうですね、まだ私が暴くべき真実が残っています。ここで旅をやめるわけにはいきません」
 周りの耳を気にしてか、テメノスは具体的な話をしなかった。しかし、おそらく彼にはそこに至る道筋がある程度見えているのだろう。キャスティはうつむく。
「そう……」
 テメノスは眉をひそめた。
「浮かない顔ですね」
「ごめんなさい、あなたが来てくれることはとても嬉しいの。でも……ううん、上手く言えないわ」
 彼女は足を止め、ブーツのつま先に視線を落とす。それから小さく唇を開いた。
「さっき、あなたの同僚の方と少し話をして……その人は、あなたが何を考えているか分からないって言っていたわ」
「ああ、ミントさんですね」
 彼はすぐに思い当たったようだ。キャスティは顔を上げる。
「あなたは……ずっとまわりにそう言われて生きてきたの?」
 じっとその相貌を見つめれば、テメノスは一瞬口をつぐみ、それから脱力したように肩をすくめた。
「まあ、昔からよく言われましたね」
「そう……なんだか信じられないわ」
「あなたにとって、私の考えはそんなに分かりやすいということですか?」
 キャスティは首を振る。
「そういうわけでもなくて……ちゃんとあなたを見ていたら分かるはずなのに、と思ったの」
 視線が交差する。たっぷり雄弁な空白が流れてから、テメノスは軽く息をついた。
「私はあなたが倒れたと聞いて介抱しに来たのですが……どうしてこちらが心配されているんですかね」
 論点をずらされてしまった。彼はあまり湿っぽいのは苦手だと以前言っていたので、そのためだろう。ただし、こうやって彼が話を終わらせようとするのは「相手の言葉をちゃんと受け取った」という合図でもあった。
 キャスティは肩の力を抜く。
「お節介だったわよね。言いすぎちゃったわ」
「そんなことはありません。気にかけていただき感謝しています」
 強く言い切られた。その台詞に彼なりの思いが込められていることは明白で、キャスティは「考えていることが分からない」なんて結論は到底出せなかった。
 二人は歩みを再開した。今度はテメノスが少し声色を変えて切り出す。
「ところで、近頃のあなたは元気がない、と先ほどアグネアから聞きましたよ。もしかして……次の目的地が気になるのですか?」
 心臓が小さく音を立てる。そう、次はキャスティにとって最後の目的地――ティンバーレインだ。
 いつしか二人は宿の方角から外れ、崖際にたどり着いていた。キャスティはいつかと同じ手すりに寄りかかる。
「ええ。あの雨に対抗する薬の調合方法が、まだ見つかっていないの……」
 それが現在の懸念事項だった。
 たとえ素材が揃っていても、ただ練るだけでは薬は効力を発揮しない。調合する順番やその扱いを念入りに考えなければならなかった。キャスティは一度雨を浴びているためある程度症状を把握しているが、記憶を辿って調合するだけでは確実性に欠ける。最悪の場合は、対処法が見つからないままティンバーレインに突入する羽目になるだろう。
 テメノスの瞳が鋭く光る。
「だから私の――仲間の同道を歓迎できない、というわけですね」
 何もかも見透かされていた。キャスティは口をつぐむしかなかった。
 根底にある不安は、彼の指摘した通りだ。もし皆をティンバーレインに連れて行った挙げ句、エイル薬師団と同じ結末を迎えてしまったら? 彼らは記憶喪失などという身元の怪しい女のもとに集ってくれたかけがえのない仲間であり、キャスティにとっては薬師団と並んで大きな存在だった。だから危険から遠ざけたい。安全な場所にいてほしい。
 しかし、それと同じくらい「どうか一緒に来てほしい」という願いも抱いていた。
 きんと冷えた空気がほおを刺した。まばたきの回数が増える。目の前の穏やかな景色は変わらないのに、キャスティの心境は最初に来た時とずいぶん変わってしまった。暖色の山の向こうにヒールリークスの村を透かし見て、彼女は目をすがめる。
 二人は長い間黙っていた。やがて、靴底が地面を擦る音がした。テメノスが一歩近づいたのだ。
「キャスティ」
 静かに呼びかけられ、振り返る。テメノスの瞳には真剣な色が浮かんでいた。
「あなたは一人でも多くの人に救いの手を差し伸べるために動いていますが、しばしばあなた自身はその輪から外れてしまうようですね」
 彼は一度言葉を切り、噛んで含めるように付け加える。
「私たちは、そんなあなたを手助けしたいんです。
 それに、雨から人々を避難させるなら、人手は多い方がいいでしょう」
 一つ一つの言葉が重く胸に響く。それは心が沸き立つような申し出で、素直に受け取ればいいのに、キャスティは食い下がった。
「でも、もし薬が調合できなかったら……」
「その場合、私たちにとってはあなたについていってもいかなくても、あなたを失うことは変わらないんですよ」
 ほのかに熱のこもった声を聞いて、はっとした。
 そうだ、それだけは絶対に避けなければならない。今ここで向かい合う二人は、似通った痛みを知っているのだから。
「そうよね……私の代わりにみんなが同じ気持ちを味わうだけよね」
 薬師にとっては、仲間の心も守るべき対象だ。彼女は袖の上からそっと腕の痣を押さえた。
 テメノスは少し表情を和らげて続ける。
「無責任と受け取られるかもしれませんが、あなたなら必ず特効薬を調合できると……信じています。私たちに手伝えることがあれば言ってください」
「ありがとう、テメノス」
 向けられた信頼がキャスティの肩の荷を軽くした。彼女は少しほおを緩めてみせる。こうやってつい弱音を吐いてしまうのは、彼が神官だからだろうか。
 テメノスも安心したように表情を崩した。
「交換条件ではありませんが、戴冠式の前に目的地を追加してもいいですか?」
「ええ、構わないわ。どこ?」
「ストームヘイルへ。混乱の極みにある聖堂機関の本部に行って、高みの見物でもしようかと」
 彼はしれっと言ったが、本心は丸わかりだった。キャスティは小さく笑う。
「本当に用事があるのはそのお隣よね?」
 聖堂機関本部の横にはささやかな墓地がある。そこに眠る聖堂騎士の名も顔も、キャスティはよく覚えていた。以前から、テメノスがいつ墓参りに行くのか気になっていたのだ。
 彼は観念したように両手を挙げた。
「やはり私の考えは分かりやすいんですかね」
「いいえ。今回はたまたまよ。そうだ、私も一緒にお墓参りに行かせて」
「ええ、ぜひ。……『彼』にも報告したいとずっと思っていたのですが、すっかり遅れてしまいました」
 二人はしばし口を閉ざし、雪の町で起こったことと、これからの旅路について思いを馳せた。
 ひときわ冷たい風が吹き抜けて、キャスティは腕をさすった。いつしか日が暮れかけている。
「長い寄り道になりましたね。帰りましょうか」
「そうね」
 テメノスに促され、再び宿を目指す。彼は本来の家ではなく、仲間のいる場所へ「帰る」と表現した。そのことにキャスティは不思議な感慨を覚える。とはいえ、彼女もまったく同じ気持ちだった。
 宿の入口の脇には、二人の帰りを待つようにソローネが立っていた。彼女は道行く男性からちらちらと熱っぽい視線を向けられては、妖艶な微笑を返していた。
 夕闇の中で二人の姿に気づいた彼女は、一転してにやりとする。
「おかえり。ずいぶん話し込んでたみたいだね。あんまり遅いから探しに行こうかと思ったよ」
「体調不良の人を急がせるわけにはいきませんから」
 テメノスが平然と答える。実のところ、話し込んでいるうちに頭痛はほぼ回復したのだが。ソローネは両肩を上げる。
「ふふ……どうだか。さ、みんな中で待ってるよ」
「みんな?」
 オーシュットがアカラと一緒に帰ってきたのかしら、と考えながらキャスティは先に立って宿の扉を開けた。
 狭いロビーに仲間たちが集まっている。その輪の中心に鮮やかな赤い衣が見えた。彼女は大きく息を吸ってその人に駆け寄る。
「ヒカリ君!」
 しばらく見ない間に、剣士は大人っぽくなったようだった。王としての自覚が彼をそう見せるのだろう。
 ヒカリは一段と精悍さを増した顔でほほえむ。
「キャスティ。ずいぶん時間がかかってしまったが……馳せ参じたぞ」
 アグネアは「来てくれただけでとっても嬉しいよ!」と喜び、パルテティオが「今夜は飲もうぜ」と誘いをかけて、オズバルドが無言でうなずいている。
 オーシュットが口をとがらせた。
「遅いぞひかりん、間に合わないかと思ったー」
 すまなかったな、と小さく頭を下げる彼の姿を、キャスティはやや呆然として眺める。彼女と違って仲間たちはそれほど驚いていない。ヒカリが戻ってくることを知っていたのだろうか? そんな連絡はなかったはずだが。
「ええと、ヒカリ君はどうして私たちがここにいるって分かったの?」
「私が手紙で知らせました。場所と日程だけ教えて、どうするかはヒカリの自由だと書き添えてね」
 テメノスが平然と言い放つ。その横で、オーシュットが気持ちよさそうに大きく伸びをした。
「やっぱりこうなるよね。砂漠に残る時のひかりん、まだまだ旅する気満々に見えたからなー」
 狩人はこういう直感が本当に鋭い。一方で、兆候にまったく気づけなかったキャスティは自然とほころぶ顔をなんとか引き締め、ヒカリに尋ねる。
「でも、王様のお仕事はどうしたの……?」
「ク国は俺一人で回っているわけではない。文官たちが多く生き残っていたことが幸いして、内政は彼らに任せられる段階まで来た。ベンケイは……どうしても俺の助けが必要な友がいる、と言って説得してきた」
 簡潔な説明だが、彼はここに至るまでにどれだけ難しいことをこなしたのだろう。キャスティはただただ言葉を失ってしまう。
 ソローネが片目をつむり、神官を見た。
「まったく、プリンスはちゃんと自分の足でここまで来たのに、名探偵は私たちを呼びつけるんだね」
「フフ、おかげですばやく合流できたでしょう?」
 悪びれないテメノスの発言に皆が軽く笑った。
 それから彼はキャスティの方へ向き直る。その一動作で、瞳から冗談の色が消えた。驚くほど早い変わり身だった。
 キャスティは、神官ミントの評よりもテメノスの考えを理解しているつもりだ。そう思えるのはきっと、キャスティに対する時の彼が自らを偽らず、まっすぐに思いを届けようとしてくれるからだろう。
「キャスティ。あなたの目指す場所が、私たちの行きたい場所なんです」
 細い水の流れはひとつに集まって、いつしか奔流となった。その行き着く先はティンバーレイン王国だ。
 キャスティは熱くなったほおを片手で覆い、大きくうなずいた。

 

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